書籍「塗仏の宴(宴の支度・宴の始末)」(京極夏彦)
【宗教も武道も占いも皆、同根】
この話には宗教、自己啓発セミナー、武道、気功、風水、占いなどに関わる者がこれでもかと登場する。そしてそれらが終盤、まさに組んずほぐれつしながら、彼らの原点ともいうべき土地に向かっていく。
私は若い頃、いくつかの武道を齧り、その後もある時期は気功に傾倒したり、またある時期は怪しげな自己啓発セミナーに通ったりもした。さらに壮年期には原始仏教の本も随分と読み漁った。そうした経験を踏まえると(特定の宗教に帰依したことはないし、占いや風水に凝ったこともないが)、物語の最後の方に出てくる「根はひとつ。枝分かれして――毛先もひとつ」という一文は、大いに納得できる。
それらの出発点は皆同じで、途中それぞれ経路(手段や表現)は異なるものの、目的地もまた同じなのだ。それは、この物語のストーリーそのものだが、私の迷走した半生とも重なる。
出発点に己の弱さ、あるいはその自覚がある。目的地は弱さの克服、あるいはそれに捉われない自己の確立だろうか――。
学生時代、空手道部のとある先輩が飲み会(武道部コンパというのが年に数回あった)の席で豪語した。
「俺は自分が弱いから、空手をやっているわけではないぞ!」
「押忍!」
「合法的に人を蹴ったり、殴ったりできるからやっているのだ」
私は重ねて「押忍!」と、そのときは答えた。そのときは、というのには訳がある。
社会に出て数年後、私は仕事でつきあいのある同年配(少し年下だったかもしれない)のI氏と六本木のクラブで飲んでいた。彼は普段からはきはきとした応答が印象的な好青年だった。まさに竹を割ったような性格をしていた彼だが、武道とか格闘技にはまるで縁のない男だった。
I氏は、私が席を外している間に隣の見ず知らずの若者と仲良くなったらしく、暫く楽しげに話し込んでいた。その間、店内に響く大音響でどんな話をしていたのか私には分からなかった。が突然、I氏はその若者に殴られて、床に倒れ込んだ。呆気に取られている私をしり目に店の人は手慣れたもので、あっという間に殴った若者を店外に追い払った。私は大丈夫ですかと、I氏を抱え起こした。
「はは、殴られちゃいました」と彼は、店員からもらったおしぼりで頬を冷やしながらも爽やかに笑った。
「何があったんですか?」
「わかりません。特に気に障るようなことを言った覚えもないんですけどねえ」
と言って、彼はまるで何事もなかったかのように、その後を過ごした。
そのとき私は、こういう人間には武道など必要ないのだと確信した。と同時に、あのときの空手道部の先輩が虚しく思えたのだった。
武道だけではあるまい。宗教も自己啓発セミナーも、気功も風水も占いも、己の強さ弱さに頓着しない人間には、それらが入り込む余地はないのである。
私は未だ道に迷ったまま目的地に辿り着けずにいる。