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小説『夏帆』(村上春樹)

小説『夏帆』(村上春樹)

【母と一体化したシロアリの女王】

母が死んだとき些か不謹慎ではあるが、どこかほっとしたのを覚えている。私が子供の頃の母はとても優しい人で、次男坊の私を随分と可愛がってくれたように思う。私はと言えば、それが何だか気恥ずかしくて(ときに煩わしくさえあり)、小学校高学年ともなると母を遠ざけていた。

それでも母はずっと私を愛し、私が実家を離れてからも気にかけてくれていた。私はそれを知りながら帰省はおろか、電話すら滅多に入れなかった。

母がなんとなく変わったなと思い始めたのは──シロアリの女王が母の身体に棲み付いたのは──、私が結婚した頃からだ。当初から妻とは折り合いが悪かったようだが、私が決定的に変わったと認識したのは、妻の体調不良の原因が癌だと分かったときの母の反応だった。傍から見れば、さほど不自然ではなかったかもしれない。しかし私の知っている母のそれではなかった。それは、まさにこの主人公・夏帆の母親に棲み付いたシロアリの女王のごときだった。

ひょっとしたら私の聞き間違いだったのかもしれないし、実際にそのときの私は聞き流して母に真意を問い質すこともしなかったわけだが、あれ以来私の母を見る目は変わってしまった。

とはいえ、その後しばらくはシロアリの女王が母に表出するようなことはなかった。もっとも、私が母に会うのは年に数回、ややもすると数年に1回しかなかったので、気が付かなかっただけかもしれない。

しかし父が死んで数年後、久しぶりに帰省したら母の様子がまったく変わっていてびっくりした。一気に10歳以上も老いたような外見にも驚いたが、何より性格がガラッと変わっていたのだ。母はもともと我を張るような人ではなかったし、声を荒げるような人でもなかったのだが……。

しかし、この小説を読んで確信した。きっとあの頃には、シロアリの女王と母が完全に融合し、一体化してしまったのだ。かと言って、この夏帆のように、自分の母親に刃を向けることなどできるわけがない。私にはアリクイの夫婦もいなければ、モーターサイクルの男(守護天使界のジャック・ケルアック)もいない。「とぎや」の店主もスカーレット・ヨハンソンという名の猫もいないのだから。シロアリの女王と一体化した母を黙って受け入れるしかなかったのだ。

もうあんな母を見なくても良い──母が死んだとき、ほっとしたのはそんなわけである。シロアリの女王はアマゾンのジャングルから来るのではない。誰の心にも多かれ少なかれ最初にから棲み付いているのだ。

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