News 2026.08.01
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小説『死んでいない者』(滝口悠生)

小説『死んでいない者』(滝口悠生)

【葬式に集まる一族郎党の話】

タイトルの「死んでいない者」は、「まだ死なずに生きている者」とも「死んで、もうここにいない者」とも読める。だが、この小説に書かれているのは主に前者の方だ。

冠婚葬祭に親族一同、一族郎党が集まって祝ったり弔ったりするのは、世界中どこでも同じようだから、(以前にも書いた気がするが)これは一種の生活の知恵みたいなものだと思う。

普段は遠くに居るなどしてバラバラに生活していても、そういうときには集まって一族の結束を確認しているのだろう。いや、もちろん大仰に「結束」などということを意識する者はあまりいないだろうが、セレモニーとしてでも集まれば無意識のうちにそれは形成されているように思える。

よく「遠くの親戚よりも近くの他人」と言うが、それでも血縁を大事にしておいて損はないということなのだろう。その点、日本の場合(というか仏教の場合)よくできていて葬式で終わらず、死んで何年経っても、やれ何回忌だと言っては集まる。法事があるおかげで疎遠だった親戚が集まって、互いの今を確認することが出来る。

だからやはり、葬式やその後の法事は死んだ者を弔ったり偲ぶというより、未だ死なずに生きている者のための生活の知恵であろう。

よって本作においても、「死んだ者」の影は薄く、「死んでいない者」たちが酒を飲み、たわいもない話を交わし、やがてそれぞれの生活へ戻っていく。死んだ者に対し、過剰に悲しむ者はいない。たわいもない話の多くは、自分たちの今である。

私の父や母が死んだときもそうだった。もちろん、死んだ直後は大いに悲しんだ。だが、少し時間が経った葬式の場ではもう気持ちの整理はついていて、精進落としの席でやはり自分たちの今を披露し合った。

それぞれの話はとりとめがなく、感情移入しづらい。その後、「未だ死んでいない者たち」は淡々とそれぞれの家路につくが、いずれは誰もが「死んで、もういない者」になる。

その繰り返しが一族の結束を固めるが、その結束が何かの折に機能するか否かはまた別の話である。だが機能することをどこかで期待して、今日も我々は「めんどくさいなあ」とぼやきながらも冠婚葬祭に出席するのだ。

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