小説『フラニーとズーイ』(サリンジャー 村上春樹 訳)
【sureはもちろんか?】
正直、難解な話である。とりとめもない会話が延々と続いて、私にはほとんど理解できなかった。したがって、今回は本書とはあまり関係のない話を書く。だが読んでいて思ったことである。
今回私が書きたいのはアメリカ人の会話と、村上春樹の自作小説(翻訳本ではない)の登場人物にしばしば見られる会話パターンについてである。
彼の自作小説には「やれやれ」という言葉が頻発するのは有名だが、会話の中で「もちろん」と短く返す登場人物も多いように思う。数えたことはないが、たぶん多い。
だが、日本人の日常会話の中で、「もちろん」と一言で返す場面はあまりないように思う。いや、なくはないが、そう返す時は言外に「当然だろ」と言っているように──少なくとも、言われた方はそう感じる。どこか高圧的だ。
ところが、最近アメリカのテレビドラマを視ていて気付いたのだけれど、アメリカ人は会話の中で、「sure」と短く返すことがしょっちゅうある。直訳すれば「もちろん」だが、ニュアンスとしては「たしかに」とか、「いいよ」とか、「喜んで」と様々ありそうだ。
村上春樹は本書のような翻訳作業をする中で、それを自分の小説にも取り入れて、(だが「sure」と書くわけにもいかないので)「もちろん」と登場人物に言わせているのではないだろうか。彼はデビュー作『風の歌を聴け』を一旦英文で書いて、それを日本語に翻訳したと聞いたことがあるが、そんなことも影響しているのかもしれない。
それからもう一つ。村上作品では誰かが死んだりすると時々「僕のせいだ」と唐突に言い出す登場人物がいて、読んでいて違和感を覚えることがある。
アメリカ人も(少なくともテレビドラマでは)誰かが死ぬと、すぐに「俺のせいだ」とか「私のせいだわ」と言い出す。
そのあとに「あのとき、俺がああしていれば…」とかと続けるのである。
我々日本人の感覚だと、「いやいやアンタはまったく関係ねぇし…」とむしろシラケてしまうが、彼らはまるで自分のせいだと言わないと損するとでも思っているかのように「俺のせいだ」と言う。損するというのは冗談だが、そう言うのが礼儀だと心得ているフシがある。あるいは、そう言うことで、相手から「いや、君のせいじゃないよ」とハグしてもらうのを期待しているのかもしれない。
これも──つまりそうしたアメリカ人的感覚も──村上は取り入れているのではないか。おそらく、取り入れている。
そのことが、日本人の話なのに、それでいて日本の話ではないような独特の世界感(㊟世界観ではなく)を醸成し、多くの読者に支持されているのだろう。
以上、『フラニーとズーイ』とはあまり関係のない話、だが読んでいて個人的に思ったことである(今回もまたハルキスト様から叱られそうだな…。私も村上作品が大好きですとも)。

