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テレビドラマ『坂の途中の家』(主演 柴咲コウ)

テレビドラマ『坂の途中の家』(主演 柴咲コウ)

【フツーは…の呪縛】

ヒトというのはつくづく怖い生き物である。善意の仮面をつけて、他人を平気で貶たり、傷つけたりする。

私がそれを痛切に感じたのは妻を亡くして暫くした頃だ。妻が未だ元気だった頃から、同じマンションで仲の良い5~6世帯と家族ぐるみで友達づきあいをしていた。週末ごとにどこかの家に集まっては宴会をし、夏になればクルマを連ねてキャンプに行ったりしていた。

そんなことから妻が死んだ後、自然と彼ら(特に主婦連)が私の家族の面倒を親身にみてくれるようになった。私の子どもたちも幼かったので、それはたしかに最初の頃は大変ありがたかったのだが、次第に彼女らは一人ひとりのやり方(と言うか、ルールと言うか)を押し付けてくるようになった。欠陥家族になったお前たちを助けてやっているのだから従え、と言わんばかりに。

「そんなことだと、子供たちがまともに育たないよ」

と高飛車に言うヒトもいた。

当時、彼女らがよく言ったのは、「フツーは…」というフレーズだ。そのフツーが統一されていればまだ良いのだが、(当然のことながら)一人ひとり微妙に違うのである。

このドラマでも再三再四、色んなヒトの口を通して「フツーのお母さんなら…」という言葉が出てくる。そしてそのフツーに、子育てに悩む主人公の山咲里沙子や自らの子を浴槽に落として死なせた安藤水穂は苛まれる。だが、そのフツーとはいったい誰目線なのだろうか。突き詰めれば、言っている当人にとってのフツーでしかない。

要するにフツーなどどこにも存在しないのだ。客観的な統一基準などはもちろんなく、個々人の主観の押し付けに過ぎない。里沙子や水穂はそのことに早く気づくべきだったと思う。

振り返れば、私に「フツー」を押し付けてきた彼女たちもまた、社会が無言で強いる「フツーの家庭像」という呪縛の被害者だったのかもしれない。自分たちが必死に守っている規範から外れた存在を認めてしまうと、己の苦労や正当性が揺らいでしまう。だからこそ、異質な者を「欠陥」と断じることで自らの平穏を保とうとしていたのだ。

劇中、里沙子を追い詰めたのは明白な悪意ではなく、こうした無自覚な正義感の積み重ねだった。誰かの「良かれと思って」が、別の誰かの首を絞める。

その構造に気づいたとき、私はマンションの仲良し家族が振りかざす言葉を真正面から受け止める必要はないのだと思い、次第に彼らと距離を置くようになった。ちなみに、私の子どもたちはまともに育ったと思う、たぶん。「まとも」なんていうのもまた存在しないのだ──。

画像引用元 TCエンタテインメント

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