小説『生殖記』(朝井リョウ)
【生きているだけになるっぽい】
最初に表紙を見たときにぎょっとした。なかなか思い切ったタイトルである。だが、よく見ると生殖器ではなく、生殖「記」である。そこがミソで、これは生殖器に宿る生殖本能が記す物語なのだ。
それでも私のような俗人はつい、その生殖本能が大活躍する話を期待してしまうが、そういう人は当てが外れるだろう。これはむしろ生殖本能が活躍できない話なのだ。なぜなら、その生殖本能が宿る個体(宿主)がゲイだからである。
その個体・達家尚成は、ゲイであることをひた隠しにして生きている。その生きにくさから、社会・会社・家族といった共同体の原理──常に拡大・成長・発展を目指す──に背を向けているが、悟られないように共同体に「手は添えて、だけど力は込めず」を徹底する。だが、あるとき気付くのだ。自分が「いよいよ生きているだけになるっぽい」と。
この感覚は私にもなんとなく…、いや実によく分かる。私の性的指向はいわゆるストレートだが、それでもこの歳になると女性(とりわけ若い女性)から、男として見られなくなる。少なくとも、この物語で語られる次世代個体(要するに子供)をともに生産する相手にはなり得ないと見なされ、生殖器が活躍する場は与えられない。
加えて、かつては拡大・成長・発展を目指す共同体への貢献度は人一倍あったと自負しているが、それも今は大幅に減っているばかりか、むしろお荷物になっていることを自覚している。とどのつまり、私もこの尚成と同じ「ただ生きているだけ」なのである。
物語の終盤、尚成は生きていくことが自身の幸福度の上昇につながることを発見する。それは異性愛個体にしか成しえなかった次世代個体の生産を、テクノロジーの発展──体外発生(子宮外妊娠等)の実現──次第では同性愛個体もできるようになり、ひいては異性愛個体から特権意識を剥奪できる、そんな未来を夢見ることができたからである。
さらに、私のように幸福度を共同体への貢献度によって測っていた個体は長く生きれば生きるほど幸福度を下げていくが、自分は生きれば生きるほど、その実現に近づくことにも気づくのである。
尚成の見方が正しいかどうかは分からない。だがいずれにせよ、生殖本能が物語る話に年寄りの明るい未来は無さそうである。

