書籍「真説宮本武蔵」(司馬遼太郎)
【武芸百般といえども……】
宮本武蔵と彼以降の剣豪について著した短編集である。宮本武蔵と言えば、私などは寡聞にしてコミック「バガボンド」(井上雄彦)でしか知らないが、司馬遼太郎の書いた武蔵は虚栄心に満ちた、実に人間臭い武芸者である(もっとも虚栄心という点では、本書にある他の剣豪も大同小異だ)。
この中では千葉周作(江戸後期の剣豪)の話が面白かった。当時、木刀や真剣を用いた、型を重んじ気を練り上げる旧来の約束稽古から、竹刀や防具を付けた組討ちを重視する稽古への移行は、大きな抵抗と混乱があったのだろう。そして、それは現代の武道においても、未だ解消されていない課題のように感じる。
組討ち(乱取り)稽古を突き詰めれば、安全を確保するために命のやり取りから程遠いスポーツと化していく。だが、それを嫌って約束稽古に固執すれば、一部の天才を除いて形骸化した舞踊になってしまう。現代武道で言えば前者は柔道や剣道、空手などに代表される。後者は合気道や少林寺拳法だろうか(但し少林寺拳法は一部防具を使った乱取り稽古もある)。
おそらく千葉周作はそのバランスを上手く取ったのだろう。竹刀・防具による組討ち稽古を進めながら、型の中で気を充実させることも忘れなかったに違いない。元来の虚栄心も功を奏して、彼の北辰一刀流は大いに発展した。
だが、この一連の短編の中で彼ら剣豪が実際の合戦では大した武功を上げていないというのが興味深い。つまり剣術は、卑怯もクソもない戦場では役に立たなかったということだ。もとより「武芸」というように芸のひとつに過ぎなかったのだろう。
かの時代ですらそうなのだ。現代の武道が実戦で役立つ場面など極めて限定的と言わざるを得ない(もちろんまったく役に立たないわけではない)。実戦にはルールもなければレフェリーもいない。「はじめ!」の合図すらない。一対一とは限らないし、相手は何を手にしているかも分からない(拳銃かもしれないのだ)。そうした中では多少の技が何の役に立つだろう。
それでも知っているのと知らないのでは全然違うだろうと思うかもしれない。だが、実戦という異様な興奮状態の中では技は出ない。知っていても出せないのだ。だからこそ、武蔵は「平常心」を兵法の極意とした。千葉周作もそれがよく分かっていたようだ。
そもそも、現代社会(特に我が国)において一般人が実戦に遭遇する機会など、まずない。してみると、今日の武道がそのニーズに合わせて一方はスポーツ化し、一方は心身の健康法へと二極化したのは極めて当然の結果なのかもしれない(むろん、二極化の波に抗う武道諸流派があることは書き添えておく)。