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映画「グッバイ、リチャード!」(主演 ジョニー・デップ)

映画「グッバイ、リチャード!」(主演 ジョニー・デップ)

【最後は受容できるような気がする】

正月にいきなり能登半島地震が起きたこともあって、最近よく思うのは東南海地震が起こるのと、私に死が訪れる(あるいは死を宣告される)のとでは、どちらが先に来るのだろうということだ。どちらも今後30年でそれが起こる確率はかなり高いから(東南海地震は70~80%と言われているし、私のそれはほぼ100%だ)、どちらも明日起きても不思議ではない。

たしかに私は今、まったくの健康体のつもりだから、明日なら私が死ぬ確率の方が低いようにも思える。だが、ここ何年も健康診断を受けていないので、自覚症状のないまま病魔が体を蝕んでいる可能性はあるだろう。今の状態が本当のところどうなのか分からないという意味では、大地震が起こる確率とさして変わらないのだ。

そう思っても尚、私が健康診断を受けないのは、仏作家ミシェル・ウエルベックよろしく「今すぐ死にたいと思わないまでも、これ以上生きたいとも思っていない」からだ。そこには曲がりなりにも、人として生まれて公私ともにやるべきことはやったという思いがある。今後の人生に、これまで以上の大事業があるとは思えないし、あって欲しいとも思っていない。

ならば、ある日突然「はい、ここまでです」と後ろから死神に肩を叩かれた方が良いように思う。大地震がある日突然起こるように。健康診断で厄介な病を見つけられ、本人は健康だと思っているうちから病に振りまわされるのはまっぴらごめんである。気を病むことが病気なのだ。

その「ある日突然」が来た場合は、この映画の主人公リチャードのように癌が良いと思っている。なぜなら、余命期間が比較的正確に分かるからだ。その間に自分がすべきことのスケジュールを立てられる。他の病気と比べ生活の質を死ぬ直前まで高く保てるのも良い。尊厳を保ったまま死ねるのも良い。

そうは言っても、実際に「あと〇ヶ月の命です」と言われたら、どういう気持ちになるのか──、正直分からない。リチャードのように怒り出すのかもしれないし、酒浸りになって不道徳なことをするのかもしれない。

それでも最後は受容するしかない。受容できるような気がしている。

この世界はクソみたいな常識にとらわれ、取るに足らない見栄や外聞に執着して、皆であくせくしている──、リチャードはそれだけ教えて去っていった。

画像引用元 TVLIFE web

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