書籍「明治神宮」(今泉宣子)~その2~
【「僕の思い出を壊すな」を超える反対理由とは?】
(その1からの続き)
私はそれらの反対意見を聞きながら、「貴方たちの今住んでいる住宅地も以前は自然豊かなところだったんだけど、何十年か前に我々の先輩らが開発したところなんだよなあ」と思ったものだ。
つまり、自分たちは自然破壊の代償として得られた人工的な利便性・快適性をさんざん享受しておきながら、近くに残る自然を開発し、将来そこで暮らす人々が得られるであろうアーバニティー(urban+amenityの造語)は認めないというのは、先住民(本来の意味とは違うが)のエゴでないだろうか、と思ったのである。もちろん、そんなことは面と向かって言えなかったのだが……。
それと同じ文脈を神宮外苑の再開発反対運動にも感じるのである。先述の通り、私も一個人としては是非ともあのまま残して欲しいと思う。しかし、僕の思い出を壊すな──実に個人的な理由だ──を超える公益的な反対理由があるのだろうか。あるとすれば、それは何だろう。ユネスコの諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)等が言うように都心に残る緑の価値・効用だろうか。
開発者側の言い分としては、そもそも内苑にある大きな森には手を付けず、今回改変する外苑エリアについては、樹木の本数も緑地面積も開発後には増えるとしている。緑量(緑地体積)はやや減少するようだが、木の成長を考えれば早晩現況を上回るだろう。
そして何よりも忘れてはいけないのは、本書にある通り、神宮の杜はわずか百年前に造営した人工林なのである。もちろん、人工林だから伐採してよいとはならないが、手つかずの自然ではないのだ。そのうちの一部を今回、人工林を人工林で再生させる──姿かたちは変わるだろうが、それではダメなのだろうか。あるいは21世紀の新たな緑を造り直せばよい、というのは暴論なのだろうか。
(その3に続く)