小説『城の崎にて』(志賀直哉)
【生と死は両極にあらず】
9月で六十八になった。ここ数年は誕生日を迎えるたびに、もういつ死んでもおかしくないと思うし、同時にいつ死んでも良いとも思う。人として生まれ、やるべきことも、やりたいことも一通りやったように思えるからだ。
だが、本作の主人公が川に流された手負いの鼠を見て思ったように、「自分が願っている静かさ」としての死を受け入れることは出来るけれど、その状態に至る前に「ああいう苦しみのあることは恐ろしいことだ」とも思う。
今年の誕生日に、リビングの掃き出し窓に鳥がぶつかった。我が家の窓は拘って大き目にしたからか、たまにそういうことがある。ぶつかる鳥のほとんどは、そのまま方向転換をして飛び去るが、たまに勢いよくぶつかり過ぎて、ベランダに落ちる鳥もいる。そうした気の毒な鳥も、通常は暫くすると回復して飛び去っていく。
ところが、そのときはこれまでにないような大きな衝撃音だった。見るとやはりベランダに鳥が落ちている。何という鳥だろうか。鳩よりは小さいが、スズメよりは二回りほど大きい。
これまでのと違って、腹を見せて平べったく横たわり、口をパクパクとしている。だがそれも次第に途切れがちになり、やがて動かなくなってしまった。それでも私は暫くすれば蘇生するかもしれないと期待していた。だが、それは10分経とうが、20分経とうが、仰向けのまま平べったくそこにあった。
死んだのだな──。
そのままベランダに放置しておくわけにもいかず、私は箒を持ち出して、塵取りに収めた。それはまだ柔らかくぐにゃりとしていて、トリのもも肉のような感触を箒の柄を通して伝えてきた。塵取りに収めたのは良いが、さてどうしたものか。まさか燃えるゴミとして出すのも憚られる。
考えたあげく、隣の古墳緑地に投げ込むことにした(宗教心に篤い人からは叱られそうだが…)。あそこなら誰の手を煩わせることなく、自然界の食物連鎖の中で適切に葬られるに違いない。
塵取りをハンマー投げのようにして思い切り腕を振ると、鳥(だったもの)は大きく弧を描いて飛んで行った。そのときになっても私はなお、それが自力で飛翔することを願った。だが、茂みの向こうに消えると間髪を入れず落ちる音がした。
本作で主人公が図らずも殺してしまったイモリの死が、イモリにとって不本意なものだったように、あの鳥もまさかあの日、我が家の窓ガラスに激突して悶絶しながら死ぬとは思ってなかったに違いない。
電車に撥ねられたにもかかわらず運よく生きていられた主人公や今日まで死なずに無事生きていられる私も、作中の蜂や鼠やイモリ、果てはあの日我が家のベランダで死んだ鳥とさして変わりはないのだ。主人公が言うように、それは「両極」ではなく、「それほどに差はない」のである。その日はいつでもやって来る。

