小説「夏帆」(村上春樹:『BRUTUS』2025年8月15日号掲載改訂版)
【ルッキズムについて考える】
久しぶりに村上春樹が執筆した短編小説は、主人公・夏帆がブラインド・デートで出会った男に「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言われるところから始まる。
物語中、その男・佐原は言う。
「いいかい、この時代、ルッキズムというものが強く否定されている。多くの人が美人コンテストを声高に批判する。公衆の面前でブスなんていう言葉を口にしたら、間違いなく袋叩きにあうだろう。しかし一方でテレビを見てごらん。雑誌を見てごらん。そこには化粧品や美容整形やエステサロンの広告が溢れかえっている。そういうのってどう考えても馬鹿馬鹿しい。意味のないダブル・スタンダードじゃないか。まさに茶番というべきか」
男も女も人は皆、美しいものが好きなのだ。それが花であれ、絵であれ……、何だって美しいものを嫌いだと言う人はいないだろう。ところが人物がその対象となると、途端にそれについて口を閉ざすのはおかしくないだろうか、と私も思う。
「だからといって、意味もなく人を傷つけていいということにはならないでしょう」
夏帆はそう言って、佐原を病んでいると断じた。もちろん、私も彼はたしかに病んでいると思うが、しかし一方で人物の美について語ることのみを過度に否定するのも病的であるように思うのである。以前どこかの幼稚園の運動会で、園児にお手て繋がせ徒競走を走らせたことが話題になったが、あれと同じ匂いがする。不自然に「個」を失くさせてどうしようというのか。
所詮は「個」を構成する要素、あるいはその評価軸の一つに過ぎないのだ。ルックスが良いのも、足が速いのも。勉強ができることや性格の良いことと同様に、優れている点は優れていると素直に称えれば良いではないか。足は努力次第で速くなれるが、ルックスは違うって? まさかノーベル賞は努力の有無で決まるとでも? あるいは努力次第で誰でも大谷翔平になれるとでも?
別にルックスが良いからと言って、その人を全人格的に肯定するわけではないし、仮に美しいと言われないからと言って、人格や人間性を否定されるわけではないのだ。
要するに、美しいものは美しいと素直に称えるべきだが、だからと言って醜いものを醜いとわざわざ声に出す必要もない、というだけのことだと思う。徒競走でビリになった子を嘲笑してはいけないように。
物語はその後、絵本作家である夏帆が顔を失くした少女の物語(つまり作中作)を描く。「顔探し」の旅に出かけた少女は、世界中を巡ってあるとき気付くのだ。間に合わせで貼り付けてきた顔が、いつしか本当の自分の顔になっていることに。
これは、「浄化」とか「再生」のメタファーと捉えるべきなのかもしれないが、私には人の美に口を閉ざす現代人──容姿について語られなくなった我々──こそが、顔を失くした少女のように思えるのである。

