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2021年の山椒魚──引きこもりのコピーライターと猫(吉田柴犬+Jaja)

「やれやれ」

僕は大きなため息を一つついた。

3年ほど住んでいるマンションの一室から久しぶりに外へ出てみようと思ったのに、玄関ドアから先に出られなかったからだ。なぜだか分からない。決して悪くない住み心地だった1LDKの玄関口に、何か結界でも張られているかのようだった。そう思うと、玄関口周辺が急にうす暗くなったような気がした。無理に出ようとしても、ドアの先に足を一歩踏み出せないのだ。僕の身体は玄関口を塞ぐワインボトルのコルク栓に過ぎなかった。

やれやれ──僕はもう一度、谷川の底くらいの大きなため息をついた。

僕は南青山のぱっとしないマンションに住みながら、コピーライターの仕事をしている。収入は悪くない。フリーランスだから、文字通り自由だ。生来の出不精だけど、たとえ何年も家から出なくたって、どこかのお偉いさんにどやされる心配もない。

去年からの新型感染症の行動制限とやらにかこつけて、僕が部屋に引きこもって仕事に没頭しているうちに、誰かが玄関ドアに妙な細工をしたのかもしれない。

 

僕は部屋の中を許される限り広く歩き回ってみようとした。行き詰ってしまったとき、人はわけもなく部屋の中を歩き回る。でも、この部屋は歩き回るには決して十分な広さとはいえなかった。壁にこびり付いた埃が手足に触れて、指先が皮膚病になってしまったんじゃないか、と思ったくらいだ。僕はもう一度ため息をつこうか迷った末にやめて、こうつぶやいてみた。

「本当に出られないのなら、僕にも考えがあるんだ」

もちろん誰も聞いていないのだから、誰も暖かい返事なんてしてくれなかったけど、それでも少しだけ気分がよくなったような気がした。でも、本当はそんなうまい考えなんて、どこにもなかった。

不貞腐れてベッドに横たわると僕のささやかな住まいの天井には、奇妙な形をした茶色い水染みができていた。おおかた上の階に住んでいるカップルが愛の交歓に熱中して、風呂の蛇口を締め忘れた時に出来たのだ。その染みのひとつはまるで今生まれたアメーバみたいにあちこち侵食し始めているかのように見えた。また端の方に溜まっている埃は僕が歩くだけのちょっとした振動で舞い散って、まるでそれは細く白い花がらの先端に可憐な花を咲かせて、そのキュートな実が隠花植物の種子散布の法則どおり午後の花粉を散らし始めているかのようだった。

僕はそんな水染みや埃を眺めることはあまり好きではなかった。いつか本当に水がしたたり落ちてきて、この部屋の家具やら床やらを汚してしまったり、舞い散る埃が僕の肺を侵してしまったりするのでは、と恐れたからだ。さらに部屋の天井のコーナーには、一群れずつの「かび」さえも生えてきた時は、驚いて口もきけなかった。「かび」は常に消えたり生えたりして、絶対に繁殖しようとする意志はないようにみえた。

 

僕は部屋の窓から、外の光景を眺めることの方が好きだった。通りを挟んで板状の高層マンションが建っているから、遠くのものを見られないにしても、ほの暗い部屋の中から明るい場所をのぞき見することはちょっと秘密めいた体験だった。

通りは、時にはものすごい量の人の行き来があって、それらがあっという間に歩き去ったり、意外な所で大きな滞りを招いているみたいだ。僕は部屋の窓から、通りの様子を飽きずに眺めていたものだった。遠くからそんな僕を眺めたら、きっと行儀のいい私立の小学生みたいに見えただろう。沿道では積み木細工のような細長いビルがいくつか建設中だった。それらは地面から空まで一直線に伸びていた。そしてある高さに達すると一様に、まるで巨大な掌で頭を抑えつられたかのように伸びるのをやめ、やがて低層階に華やかなブランドショップが張り付くのだった。多くの人たちは、そうしたブランドショップを見て回ることが気に入っているらしく、通りの歩道に開店待ちの列を作って、互いに他の人に横入りされないように一生懸命だった。

彼らの一団は右によろめいたり左によろめいたりしていて、ある一人が左によろめくと、他の多くの人は遅れまいとしていっせいに左によろめいた。もしある一人が他の人に邪魔されて右によろめかなければならなかったなら、他の多くの人たちはことごとく、例外なく右によろめいた。この集団では、ある一人だけが他の多くの仲間から自由に逃げ出すことは難しいみたいだった。

僕は、これらの人たちを眺めながら、苦笑せずにはいられなかった。

「なんて不自由な人たちだろう」

そうした人の波がたえずゆっくりと渦を描いていると教えてくれたのは、人波の中に居た一人の少女だった。彼女が被った白い麦わら帽子は最初人波の中で大きく円を描きながら、その円周をしだいに小さくし、その速度を速めていき、最後に、ごく小さい円周を描いたが、次の瞬間、麦わら帽子は店の中に吸い込まれてしまった。

「このままだと目がくらみそうだ」。僕はつぶやいた。

 

ある夜、一匹のゴキブリが僕の部屋の中に紛れ込んできた。この小さな動物は産卵期らしく、赤茶色のお腹いっぱいにチョコレート菓子に似た卵を抱えて、壁にすがりついた。彼は、細長い、本当によく見ないと先端が見えない触手を振り動かしながら、何を思ったのか、壁から急に飛んで、二、三回ほど巧みな宙返りをはさみ、今度はベッドに寝ていた僕の横っ腹にすがりついた。これまでの僕なら、慌ててその小動物を払い落としていただろう。だけど、じっとしていた。

僕はゴキブリがそこで何をしているのか、振り向いて見たい衝動にかられたのをなんとか思いとどまった。だってほんの少しでも体を動かしたら、この小動物は驚いて逃げ去ってしまっただろうから。

「でも、この小動物はいったいここで何をしているのだろう?」と僕は思った。この一匹のゴキブリは僕の横腹を温かい毛布かなんかだときっと思い込んで、そこに卵を産みつけていたのかもしれない。あるいは、何か一生懸命にもの思いにふけっていたのかもしれない。例えば、世界の成り立ちについて。

「何かを心配したり、もの思いにふけったりするのは、時間の無駄だよ」と僕は言ってみたけど、世界中の誰もが聞いていなかった。

僕はどうしても部屋の外に出なくてはならないと決心した。いつまでも考え込んでいるほど愚かなことはないのだから。自分に向かって冗談を言っている場合ではないみたいだ。

まず全身の力をこめて開けた玄関ドアに突進してみた。でも僕の身体はドア口のところでつかえて、ワインのコルク栓をはめ直しただけだった。だからコルクを再び抜くためには、僕は再び全身の力をこめて、後ろに身を引かなければならなかった。

この騒ぎで、部屋の中の淀んだ空気はすっかり攪拌されてしまって、その時のゴキブリの驚きといったら大変なものだった。けれどゴキブリは、彼が毛布であろうと思っていたものの一端がいきなりワインのコルクとなって栓をしたり抜けたりした光景に、笑わずにはいられなかったみたいだ。あまり知られていないことだけれど、ゴキブリは女子高生と同じくらい淀んだ部屋の中でよく笑う生物なのだ。

僕はなんどか試みて、何度か徒労に終わった。身体は部屋の出口につかえて抜けなかった。次の瞬間、僕の目から涙が流れていたことに気づいた。

「ああ神様! なんて無慈悲な。たった二年間、うっかりしていただけなのに、その罰として、一生この部屋に閉じ込めてしまうなんて。僕は今にも気が狂いそうです」

あなたがうつ病のゴールデンレトリバーに出会ったことがないように、精神に異常をきたした引きこもりのコピーライターを見たことのある人がどのぐらいいるか分からないけど、僕にその傾向がないとは決して言えなかった。でも、どうか笑わないで欲しいと思う。僕がもう飽きるほど暗黒のバスタブにつかりすぎて、我慢ができなくなっていることも分かってほしかった。どんな入院患者だって、自分を病室から解放してもらいたいと願うはずだし、最も人間嫌いな囚人だって同じような希望を持つに違いないのだから。

「ああ神様、どうして僕だけがこんなにひどい身の上なのですか?」

 

季節はいつの間にか、冬になっていた。粉雪の舞い散るマンションの下の通りでは2匹のネズミが遊んでいた。彼らは1匹がもう1匹の背中に乗っかったところで、突然の野良猫の出現に驚いて直線をでたらめに折り曲げた形に逃げ回っていた。その猫は通りの歩道から沿道のブランドショップに向かって勢いよくリズミカルに歩いては、そのしゃれたシルエットを店のウインドウに映して、また違うビルのショップに向かって歩くという動作を繰り返していた。

僕は、猫の活発な動きをちょっと感動すら覚えながら眺めていた。でも、自分を感動させるものから、むしろ目を避けたほうがいいということにようやく気がついた。僕は目を閉じてみた。そして少し悲しい心持ちになった。なぜなら自分自身がまるでブリキの切りくずになってしまったような気がしたからだった。

誰だって、自分自身をあまり愚かな言葉でたとえてみることは好まないだろう。でも、ただ不幸にその心を蝕まれる人間だけが、自分をブリキの切りくずだなどと考えてみる。たしかにその時の僕は、100年生きたゾウガメみたいにもの思いにふけったり、不思議な国のアリスに出てくるウサギみたいに手ににじんだ汗をチョッキの胴で拭ったりして、時間を浪費していただけだった。

 

僕はもう閉じたまぶたを開こうとしなかった。だって、開いたり閉じたりする自由と可能性しか、もう僕には残ってないような気がしたからだ。

すると、僕のまぶたの中では、不思議なことが起きた。それは、目を閉じるという単なる行為が巨大な暗闇をひきつれてきたからだ。その暗闇は果てしなく広がった深淵と呼んでもかまわない類のものだった。たとえ深淵については専門家といってよいニーチェですら、この深淵の深さや広さを言い当てることはできなかったと思う。

どうか、これを読んでいる人にお願いがある。僕がこんな「やわ」になってしまっていることを軽蔑しないで欲しい。たとえアルカトラズ刑務所の看守だって、よほど機嫌が悪くなければ、終身懲役の囚人がため息をもらしたからといって叱りつけたりしないだろう。もしもそんなことがあればの話だけれど。

「寒いぐらい独りぼっちだ」

注意深い心の人物だったら、僕のすすり泣きの声が部屋の外に漏れているのを聞き逃さなかったに違いない。

 

悲嘆にくれている人間をいつまでもその状態に置いとくのは、あまりよい結果に生むことはないみたいだ。控えめにいっても、僕はよくない性質を帯びてきたようだった。

ある夏の日に僕は、部屋の入り口から紛れ込んだ一匹の雌猫を外に出ることができないようにした。猫は、僕の身体が急に出口のコルク栓となったので、驚いて口を開けたまま、天井からぶら下がったペンダントライトに勢いよくすがりついた。ペンダントライトはその灯す光とともにぐらんぐらんと揺れた。この猫は、あの冬の日に通りの歩道からブランドショップに、ブランドショップから歩道に、勢いよく移動していた猫だった。

僕は、猫をいっときでも自分と同じ状態に置くことのできるのがうれしかったのかもしれない。

「ずっと閉じ込めてやろうか!」

僕のこの汚い呪いの言葉はある期間だけでも効果的だった。猫は注意深い足どりで部屋のデッドスペースに入った。そして彼女は安心したのか、くぼみから顔だけを出した。

「私は平気よ!」

「出てきなよ!」と僕はどなった。そうして僕らは激しい口論を始めた。

「出ていこうとここにいようと、私の勝手よ」

「それなら、いつまでも勝手にすればいいさ」

「あなたは莫迦よ」

「そっちこそ莫迦だね」

僕たちは、そんな言葉を何度も繰り返した。次の日も、その次の日も、同じ言葉で自分を主張していた。

そうして一年の月日が過ぎた。初夏の風や気温は、この刑務所の囚人たちを、鉱物から生物によみがえらせた。そこでふたつの生物は、今年の夏いっぱい次のように口論し続けた。僕が部屋の外になぜか出ていけないことを、すでに猫に見抜かれていた。

「あなたこそ身体がつかえて、そこから出ていけないんでしょ?」

「君だって、そこから出てこれないさ」

「それなら、あなたから出ていってみなさいよ」

「君こそ、そこから出てきなよ」

さらに一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。でも僕たちは、今年の夏はお互いに黙り込んで、そしてお互いに自分のため息が相手に聞こえないように注意を払っていた。

でも僕よりも先に、デッドスペースの相手は、深いため息を漏らしてしまった。それは「ああああ」という最も小さな風の音であった。去年と同じく、激しく埃の舞う光景が、彼女のため息を引きずり出したのだった。

僕がこれを聞き逃すはずはなかった。僕はデッドスペースの方を見て、かつ恋愛に近い感情がわきあがることに驚きながら、思わず話しかけた。

「君は、さっき大きなため息をした?」

彼女は能力の許す限り冷ややかに答えた。

「それがどうしたというの?」

「そんな返事をしなくていいよ。もう、そこから出てきなよ。」

「私、空腹で動けないみたい」

「じゃあ、だめみたい?」

彼女は答えた。

「ええ、もうだめみたい」

僕はしばらく言葉を選んでいたけど、ぱっとしない言葉しか見つからなかったので、こうたずねた。

「君は今どんなことを考えているの?」

すると、猫はとても遠慮がちに答えた。

「今でも別にあなたのことを怒ってはいないのよ」

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