書籍「タモリ論」(樋口毅宏)
【私は断然タモリ派です】
何ということだろう。テレビ朝日の深夜番組「タモリ倶楽部」がとうとう終わってしまった(らしい。ここ浜松で見る静岡朝日テレビでは今夜を含めあと2回分あるようだ)。タモリの番組の中で一番好きだっただけに、残念至極である。一つの時代が終わったということなのだろうか。多分そうなのだろう。
本書は「タモリ論」と掲げながら、お笑い御三家とかつて(今もかな?)言われたタモリ、ビートたけし、明石家さんまを並べて、それぞれを絶賛した本である。だが、断然タモリ派の私としては、その分タモリに関する分析が甘いのではないかと少々不満なのである。
そもそも私は、タモリをビートたけしや明石家さんまなどと同じ土俵で比べて欲しくないとさえ思っている(あくまでも私個人の意見です)。
明石家さんまが全盛のころ、彼を好きな女のコがいた。
「明石家さんまなんて、いったいどこが好いんだよ」
「だって面白いじゃん。あなただって、さんちゃんの出てるテレビ見て笑ってるよね?」
「あれは失笑の類さ。彼の笑いには知性というものが感じられないんだよな」
「そこがいいんじゃない。お笑いに知性なんて必要ないわよ」
私はビートたけしも駄目である。もちろん、さんまと同様、彼がテレビに出ていれば笑ってしまう。だが、さんまの笑いに知性がないのと同様に、たけしの笑いには品がない。
「毒があるのがビートたけしの持ち味なのよ」
「そんなことはわかっているさ。だけど、毒があるからといって、品がなくても良いことにはならないさ」
彼女は、めんどくさい人ね、と言いたそうな顔をして、ため息をついた。
昔、たけしは「TVジョッキー」という番組で、熱湯風呂にたけし軍団の松尾伴内や井出らっきょなどを落として笑いを取っていたことがある。あれを最初に観たとき(私は未だ中学生だったと思うが)、ある種のカルチャーショックを受けた。ああやって人がもがき苦しんでいるのを見て笑ったりして良いのか――、と子供心に思ったのだ。絶対にそういうことをしてはいけない、と母親から言われて育ったからだろう。
私は今でも、ああした行為を公共の電波で流したのは実に罪深いことだったと思っている。なぜなら、現代にも続く子供のいじめ問題は、あれに端を発しているような気がしてならないからだ。つまり、人が苦しんだり、悲しんだりするのをあざ笑っても良いんだというのを、あの放送が公然と認めたように思えるのだ。
「ずいぶん、うがった見方をするのね」
「そうだろうか」
「そうよ。大体いじめなんていうのはね、古今東西、人の集まるところであればどこにでも発生するものなのよ。ビートたけしが何をしようとね」
「それはそうかもしれないけど、少なくとも現代のこの国のいじめのプロトタイプは彼が作ったように思えるんだよ」
「そんなの、偏見よ!」と彼女は言って、またため息をついた。
誰にでも、他人の失敗や苦しみを笑いたいという気持ちはあると思う。だが、それを表に出してはいけない(幼い頃の私を叱った母は正しかった)。そうしたタブー、あるいは結界みたいものをたけしは破ってしまったように思えるのだ。彼はデブ、ブス、ハゲといった容姿も笑いのネタにした。
「実に品のない芸だと思うな」
「笑いに替えたから救われた人もいるんじゃないかしら」
「より凹んだ人の方が多いさ。そこへいくと、タモリの笑いには知性もあれば、品もあるからね」
「タモリだって、下ネタとかやるわよ」
たしかに最近でこそ少なくなったが、昔はずいぶんと下ネタをやっていた。
「いや、同じ下ネタでも、タモリの場合には知性があるから上品に聞こえるんだよ」
「それは単にあなたの好き嫌いでしょ!」と、彼女は三度目のため息を深く長くついた。
――ふむ。たしかにその通りではあるのだ。
そんな私だから、タモリのことならすべてを肯定したいのだが、最近の「ブラタモリ」には苦言を呈したい。草彅剛の言う「さすがタモリさん!」という場面を作り過ぎなのだ。もちろん、それはNHKの番組制作方針の問題ではあるのだが、そういうあからさまなヨイショをされる存在になってしまったタモリというのはいかがなものだろうか……。
やはり、ひとつの時代が終わったようだ。