映画「スイミング・プール」(監督 フランソワ・オゾン 主演 シャーロット・ランプリング)
【よく分からんけど印象に残るって良い映画ってこと?】
最初にこれを観たのは、かれこれ20年近く前だと思います。よく分からなかった、というより全く理解できなかったのに、なぜか強く印象に残ったことを憶えています。
さて今回、さすがにこの歳になれば少しは分かるだろうと再挑戦してみたのですが……。
頭を整理するために、いつになく物語を追ってみることにしましょう。主人公は、マンネリに陥ったミステリー作家サラ・モートン。中年のイギリス人女性です。彼女は編集者のジョンと愛人関係にありますが、最近の作品の出来と相まって彼の愛情も薄くなってきていると感じています。
そんな中、ジョンの提案でサラは南フランスのリュベロンにある彼の別荘で執筆活動に集中することになります。当地の静寂に包まれた環境で筆は進みますが、遅れて来ると言っていたジョンは一向に来る気配がありません。
そうこうしているうちに、彼の娘を名乗るジュリーがやってきて、若者特有の自由奔放な行動でサラの静寂を壊します。枯葉の浮かぶスイミング・プールで、はち切れんばかりの肢体を伸ばして全裸で泳ぐジュリーとバルコニーからそれを見つめるサラの構図は何とも意味深です。
その後、両親のこじれた関係に悩むジュリーが殺人事件を犯して、その一部始終をサラが小説にします。そして、ジョンとは別の出版社からそれを刊行することで彼女の復讐というか、意趣返しが完成する──そんな映画です。
と、こう書いてしまうとこれのどこが分からないのだと言われそうですが、まずラストにジョンの会社でサラとすれ違った彼の娘は明らかにジュリーとは別人です。ということは、それまでに我々が観ていた物語はサラの創作だったということになるわけですが、ではいったいどこから創作だったのか? つまり一部始終と言っても、サラはどこからどこまでを小説にしたのか?
あるいは、意趣返しと言っても単に「売れる作品を他から出してやったぜ」的なものではなく、そこには父親ジョンが白日に晒してほしくない何かが書かれていたのではないのか(ジュリーの母の遺した小説との関係は如何に)?
こうした観終わった後に頭の中が「???」でいっぱいになるような感覚をもたせるのが、この監督フランソワ・オゾンの真骨頂のようで、その後の「危険なプロット」でも引き継がれています。
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