小説『きらきらひかる』(江國香織)
【脛に傷を持つ者同士】
以前観た映画の登場人物がゲイの男性を夫に持つという女性で、彼女が「夫とは親友同士。欲望がないから長続きする」と話していたのを思い出す。続けて「私の浮気は夫公認だから」と見栄を切っていた。
ちょうどそのころ、「すべての恋愛は幻想である」と言うある哲学者の本を読んだばかりだったので、またそれが私の人生を振り返っても確かにその通りだなと思えたので、そんな関係もアリかもね、と思ったりした。
しかし、この小説の主人公夫婦・睦月と笑子の関係性は、それとは似て非なるものだ。くだんの映画の妻は「夫には何の不満もない」と言いながら、自ら浮気を公言するように、とても夫を愛しているとは思えなかった。
一方、笑子はゲイの睦月を間違いなく愛しているだろう。作者は最後まで明示的に記すわけではないが(また笑子自身は「私、セックスがそんなに好きじゃないから」と言うが)、夫を求める気持ちはあるに違いない。彼女の性的指向はいわゆるストレートなのだろうし、映画の妻とは異なり外にそれを求めるつもりもなさそうだ。
笑子は、自分も精神が不安定でアル中だからと、自分たち夫婦を「脛に傷を持つ者同士」と蔑んで、それを二人でいることの理由とするが、だからと言って夫を求めない理由にはならないだろう。
笑子のベクトルは明らかに睦月に向いている。ただ睦月のそれが笑子に向かわずに幼馴染の男・紺に行っているだけだ。
それでいて、睦月は笑子に限りなく優しい。私だったら(多くの男性も同じだと思うが)、ああ面倒くせえ!と思えてしまうようなときにも、彼は笑子を気遣う。だが、そのベクトルはおそらくは親友としてである。あくまでも。
したがって、必然的に笑子のベクトルとはすれ違う。だが、だからと言って、笑子が紺に嫉妬することはない。笑子と紺も親友同士なのだ。そうしたことがかえって彼女の精神を不安定にさせるというパラドックスである。
哲学者が言うように、すべての恋愛がいずれ醒める幻想ならば、終盤で笑子が企てた秘策──睦月と紺の精子をブレンドさせて笑子に人工授精する──は、醒めた後も3人を結びつける一つの解決策かもしれない。少なくとも彼女にはそう思えたのだろう。一方、睦月はそれをぞっとするほど淋しいことに思えたと言う。おそらく睦月は「個」であることに拘ったのだ。アイデンティティと言っても良い。この分かり合えなさが、この小説の核心である。
でも、そうした分かり合えなさやすれ違う気持ちは、果たして「脛に傷を持つ者同士」の彼らだけの問題だろうか?

