映画『ノクターナル・アニマルズ』(主演 エイミー・アダムス ジェイク・ギレンホール)
【なんでも芸術にするな!】
建築家の内藤廣氏は総合芸術の一つとされる建築について、「なにかを構築しようとする意志」であると定義づけた。至言だと思う。
よく子供が壁にする落書きを見て、「芸術だ!」などとなんでも褒めそやす大人がいるが、私はそうした安易な寛容性──これをゲージュツと言っちゃう俺──にはまったく与しない。40年近く設計事務所に在籍した者としては憤りすら感じる。もちろん私とて、多くの落書きはそう言っても良いと思う寛容さはある。だが、なんでもかんでもではない。
その差は何か? そこに何かを表現しようとする意志が感じられるかどうかだ。落書き自体の巧拙は関係ない。そうした衝動を見て取れるかだ。私が芸術として認めないのは、ただ壁を汚すことだけを目的とした落書きである。
本作オープニングのシュールな現代アートの展覧会──超肥満体女性の裸踊り──の様子がまさにそれで、ただひたすら醜悪で空疎なだけだ。しかし展覧会を訪れる着飾った人々は、それを「芸術」だと褒めそやす。
だが、展覧会を主催するスーザン自身はよく分かっているようだ。展覧会も自分もいかに空っぽであるかを。もともと上流階級出身のうえ、成功したキャリアとあいまって、何不自由のなく暮らすが決して幸せとは言えず、眠れない夜を重ねる。
そんな彼女に、19年前に別れた元夫エドワードから、自作小説『夜の獣たち(Nocturnal Animals)』が届く。その内容は、主人公の男があおり運転に会い、妻と娘を暴漢に連れ去られるというものだ。あげく二人とも凌辱され、無残に殺されるがその間、男は無力で何もできない。
それは、かつてスーザンがエドワードの子を身籠りながらも勝手に堕胎し、生活力のない彼を「あなたは弱い」と侮蔑した過去と重なる。文学という言葉の芸術で、あのときの痛みをエドワードは表現したかったのだろう。
現在の生活に絶望しているスーザンはあのときの自分を謝罪すれば、何かが変わると思ったのだろうか。エドワードと会う約束を取り付けるが彼は現れず、スーザンは一人待ち続ける。彼女の眠れない夜はこれからも果てしなく続くに違いない。
さて冒頭で触れたように私は、ただ汚すことを目的とした落書きを芸術だと褒めそやしてはいけないと思う。スーザンの心のように、何かを表現しようとする意志に目覚める機会を失うからである。
画像引用元 映画.com

