小説『沈黙』(遠藤周作)
【キチジローで行こう!】
宗教心のかけらもない私がこの本について語るのは些か気が引ける。もちろん、キリスト教に関する基本的な知識も皆無に等しいわけで、そんな私が主人公ロドリゴに対して何が言えるだろう。
物語は1638年というから、天草四郎による島原の乱があったばかりで、キリスト教に対する弾圧が一層高まっている頃の話である。若き司祭ロドリゴは同僚のガルペとともに、彼らの師であるフェレイラですら“転んだ”という危険極まりない日本での布教に赴く。
ある意味予想通りと言うべきか、布教らしい活動は何もできぬままに潜伏するなかで、彼らは日本の隠れキリシタンが次々と拷問にかけられ、殉教していく姿を目の当たりにする。そして、いよいよ彼らにも危険が及び、別々になって山中を逃げ惑うが、彼らを澳門から日本に案内したキチジロー(彼も隠れキリシタン)の密告によってロドリゴは捕らえられる。
その後、ガルペが処刑される姿を見せつけられたり、棄教し日本人となったフェレイラに転ぶことを薦められたりしたあげく、長崎奉行・井上筑後守が用意した狡猾な拷問にとうとう彼も踏み絵に足を掛ける……という話である。
この話は、だいぶ以前に映画で観ている。日本の小説をイタリア人監督のマーティン・スコセッシがどのように描くのか気になって観たのである。記憶に残っているのは、イッセー尾形が演じた井上筑後守の嫌らしさと、窪塚洋介の扮したキチジローが踏み絵を何の躊躇もなくペタリと踏むシーンである。
特に後者の印象がすこぶる強く、私は自らを生まれながらにして弱いと認めるキチジローこそが、何故か最も神の教えを理解しているように感じたのだった。
この原作小説でも、フェレイラは獄中のロドリゴに言う。
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」
その真意は私のような信仰心のない者には分からぬが、形骸化し偶像化したものに拘り過ぎていると私には聞こえた。それは日本人に限らず、最後の最後まで板切れに描かれた稚拙なキリスト像を踏むことに抵抗したロドリゴにも言えることのように思える。
そんな中で、繰り返しロドリゴの元に戻り、許しを請うキチジローのみが神の存在を正しく理解し、そのうえで純粋に神の助けを求めているように感じるのである。

