News 2025.12.02
じゃじゃの作文大賞作品募集
佐鳴湖近くの小さな図書館
BLOG

小説『人間失格』(太宰治)

小説『人間失格』(太宰治)

【感情移入できないのに…】

本作『人間失格』は不朽の名作と言われる。私も若い頃から何回か読んでいるはずだ。だが、その内容はまったく憶えていない。それもそのはずで、あらためて読み終えた今も何が書かれていたのか、よく分からないのである。

ここでは、そのわけを探っていきたい。

まず、本作の特徴は二重構造になっている点にある。「はしがき」と「あとがき」が、(当たり前だが)最初と最後にあって、それらに挟み込まれる形で「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」が置かれている。挟み込まれている3つの手記は、大庭葉蔵という人物が自らの半生を語る独白である。「はしがき」と「あとがき」は、それらの手記を入手したという作者が書いている──という建付けの二重構造である。

だが、葉蔵と作者・太宰治は同一人物に違いない。後年を生きる我々読者は、破滅的な生き方をした葉蔵の独白が(事の子細はともかく概略)、太宰の人生そのものであることを知っている。

同一人物のはずだが、この二人は明らかに人格が異なる。「はしがき」と「あとがき」を書く作者は常識人として、葉蔵を「狂人」とまで言って批判的に見ている。

小説家の佐藤正午は『小説の読み書き』という本で、葉蔵である太宰が常識人のふりをして、「はしがき」と「あとがき」を書いている可能性を指摘する。だとすると、批判されているはずの葉蔵は、常識人の後ろに回り、常識人を見ていることになる。となると、もともと葉蔵の居たところ──つまり、常識人の前──にはいったい誰が居るのか、と問うのである。

もちろん、佐藤が暗に示唆しているのは読者の我々である。葉蔵の生きづらさや弱さは皆、身に覚えがあるだろう。私にも彼と同じようなところは多々ある。だが、私の印象はやはり冒頭で触れたように、そこ(もともと葉蔵が居たところ)には誰も居ないのである。

その訳の一つには、時代が違って「我がこと」のようには考えにくいという事情がある。一つには、私は大庭葉蔵のように頭が良いわけでも、初対面の女性誰しもから好かれるほど秀でた容姿があるわけでもないということもある。さらには、何をやっても最終的には助けてくれる裕福な実家があるわけでもない。

したがって現代的な視点で見れば、恵まれた境遇にいる者が自分に、あるいは世間に甘えているようにしか思えず、感情移入できないのである。

にもかかわらず、こうして何回も読んでしまうのは何故だろう。ひょっとしたら太宰は読者が容易に感情移入できないことも承知の上で、この作品を書いたのかもしれない。そして繰り返し読む私は彼の術中に嵌まっているのかもしれない。

蛇足だが、大庭葉蔵は字が異なるものの私の父と同姓同名である。

PAGE TOP