小説『グラスホッパー』(伊坂幸太郎)
【人は誰でも死にたがっている?】
本作は登場する3人の主要な人物それぞれの視点で同時並行的に物語が進む。一人は「鈴木」という人物。彼はフツーの中学校教師だったが、妻をある男に面白半分に轢き殺された過去を持つ。その復讐のために、その男の父親・寺原が経営する怪しげな会社≪令嬢≫に潜り込むが、「押し屋」と呼ばれる謎の殺し屋に先を越されてしまう。
もう一人は「鯨」という人物。彼は「自殺屋」と呼ばれる男で、直接手を下すことなく、依頼のあった人物──汚職政治家の秘書とか、正義感あふれる女性ジャーナリストとか──を、不思議な能力で自然な自殺に導く。
あと一人は「蝉」という人物だ。この男は若いがナイフ遣いの得意な、ある意味正当な殺し屋だ。殺し屋に正統なんてものがあればの話だが──。
要は、鈴木と自殺屋・鯨と正当な殺し屋・蝉に、押し屋の蕣(あさがお)を加えた4人がくんずほぐれつしながら殺し合う物語である。だが作者独特の軽やかな文体からか、さほど殺伐とした印象は受けない。
さて、この物語の中で私が着目した点をあげるとすれば、
「人は誰でも、死にたがっている」
という鯨の言葉である。彼は、殺しを依頼された人物と会話を交わす中で、無理強いすることなく遺書を書かせ、自ら首を吊ったり、窓から飛び降りたりさせる。
なぜ、そんなことができるのか? それは人は皆、潜在的に死にたいと思っているからだ。確かにそうかもしれない。生まれてこのかた、「死にたい」と一度も思わなかった人間など居るのだろうか。居ないに違いない。
私などしょっちゅう思っている。仕事で大きな失敗をしたとき、好きな女のコに手痛くフラれたとき、とんでもない勘違いをして恥ずかしい思いをしたとき、一生懸命やっているつもりなのに、結果が出ないとき……。
そんなとき、誰かに「わかるよ、お前の気持ち」などと理解を示され、「死ねば楽になれる」と言われれば、人は案外、簡単に死を選ぶのかもしれない。鈴木もそうしかけたように。
だが一方で、人は「それでも生きたい」と思っている。何かあるごとに死にたいと思う私が今日まで生きているのは、その証左である。そう確信している。
物語の最後に、鈴木はたらふく食べて、前を向く。

