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新書『小説の読み書き』(佐藤正午)

新書『小説の読み書き』(佐藤正午)

【読むことは書くこと】

著者の小説家・佐藤正午は小説を読むということと書くということは同義だと言う。どういうことか? それは、例えばこういうことらしい。

貴方はとある小説のとある一行にある、とある表現または描写を読んだとする。そこで貴方は「ん?」と詰まる。それはほんのちょっとした(多くの場合そのまま素通りするような違和感かもしれないが、そんなとき貴方は「私ならこう表現するのにな」とか、「俺だったらこう書くな」とかと思う。

いや、俺はそんなこといちいち思わない、と天邪鬼な貴方は言うかもしれない。だが、あまりに瞬時のことなので無自覚なだけだ。貴方は頭の中ではほんの一瞬、そういうことを考えている。

たとえば、本書の最初に取り上げている川端康成の『雪国』。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は有名な書き出しである。誰もが知っている。だが、ほとんどの人は「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」と諳んじている。オリジナルに対し勝手に「そこは」を入れているのだ。これなど無自覚なうちに「俺ならこう書く」をやっている動かぬ証拠だろう。

どうだ、これが証拠だと著者が言っているわけではない。だが、私が思うにそうしたことが「読む」と「書く」は同義だとする著者の言い分なのだと思う。あくまでも私の解釈である。

ちなみに、この有名な「国境の長い…」の後には、「夜の底が白くなった」と続く。『雪国』は私も読んだことがあるはずだが、恥ずかしながら憶えていなかった。おそらく多くの人も同じだと思う。

それにしても流石はノーベル賞作家。「夜の底が…」とは凡人には書けない。私なら頑張っても、せいぜい「夜の大地が白くなった」とするくらいだろう。

せっかくこんな秀逸な描写を思いついたなら、なぜ書き出しで使わなかったのだろうか。私なら「国境の長いトンネルを抜けると夜の底が白くなった。そこは雪国であった」とでもしそうである。

だが、作者・川端はそうせずに、オリジナルの通りに書いた。そして、実際にそうしたから、誰もが知る書き出しになったのだ。私の言うように書いたら、そうはならなかったに違いない。

本書のタイトル『小説の読み書き』とは、つまりはそういうことらしい。

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