映画「月」(主演 宮沢りえ)

【常人が狂うとき】
実際にあった障碍者施設での殺傷事件をモチーフにした小説(辺見庸 作)の映画化である。そこに提示されるテーマは限りなく重い。
主人公の小説家・洋子は夫の昌平との間に男の子をもうけるが、生まれながらにして心臓疾患を抱えていたその子を3歳で亡くしてしまう。以来、夫婦ともども生きる意味を失い、洋子は小説も書けなくなっている。
そうした折、彼女は障碍者施設に非正規雇用されるが、次第にそこでの障碍者への対応に疑念を持つことになる。非人道的な扱いをする職員が多い中、比較的まともと思われた二人の職員の心も壊れているようだ。
彼らの一人が言ったように、我々は普段こういうことをなるべく見ないようにしている。こうした実態があることは皆、何となくわかっているのに、だ。私もそうだ。そんな事実と向き合うことを避けている。
なぜ、直視しないのか。まず、気の毒過ぎて見ていられないということが先に立つ。そして次には、とても気の毒ではあるけれど、自分一人がそれと向き合ったところで何も変わらないという諦めの気持ちが来る。あげく、とりあえず自分の事ではないとして目を逸らすのだ。自分には無縁なことだと。無縁であって欲しいと思いつつ──。
だが、わかっている。その“とりあえず他人事”とした私も、遠からずして自分事になるということを。歳を取って身体の自由が利かなくなれば誰もが同じような立場に置かれるのだ。
終盤、‘さとくん’は「しゃべることさえできない障害者とは心が通わない。人間とは言えないから殺してもいい」と凶行に及ぶ。
‘さとくん’は身体が不自由な彼らは「生産性のない人間」だとも言ったが、私もそうなるのだろうか? そして、その疑問は
「頑張って生きている意味があるのか?」
「人として生きるとは何か?」
ひいては「人とは何か?」という問いにまで発展していく──。
答えは出ない。答えが出ないのを良いことに今日も考えるのをやめてしまう。いや、自分が‘さとくん’にならないように思考を停止するのかもしれない。
映画は最後、洋子たち夫婦が授かった新しい命に出生前診断をするか、しないか、ひいては産む、産まないの決断を迫って終わる。
画像引用元 GQ Japan