NHKスペシャル『未解決事件File.07 ベルトラッキ贋作事件~世界をだました希代の詐欺師』(ナレーション 和久田麻由子)
【貴方が愛していたのは…】
一つ、思考実験をしたい。
たとえば、貴方は資産家の娘で、熱心なプロレスファンだとする。なかでも好きなのは、とある覆面レスラーで、夢にまで出てくるほど彼に恋い焦がれている。
もちろん素顔は知らない。わかっているのは、発する言葉やその肌の色などから、おそらくは日本人だということだけだ。
それが思いがけず知人の紹介でそのレスラーと付き合うことになる。彼の素顔は想像していた通りのイケメンで、筋骨隆々とした体もリング上で見ていた通りだった。性格も誠実で優しく、非の打ち所がないほどだ。
貴方はすっかり舞い上がり、そのまま結婚してしまう。その後、幸せな結婚生活が何年か続いたある日、夫が彼女の憧れた覆面レスラーと同一人物ではないと分かる。既に多額のカネを貢いだ後だった。
そんなとき、貴方はその男をどうするだろう。彼は逃げも隠れもせずそこにいる。端正な顔立ちも、均整の取れた体つきも、誠実な人柄もすべてそのままだ。
そんな彼を前に、貴方は話が違うと怒るだろうか。怒るだけでは気が済まず、離婚の手続きを取るだろうか。いや、そんな直ぐに彼を愛せなくなるのだろうか。だとしたら、貴方が愛していたのは、何だったのか。
この贋作事件のドキュメンタリーを視ていて、そんなことを思った。このベルトラッキという贋作師が描いたのは、誰もが知るような有名な絵の贋モノではない。比較的マイナーな、だが知る人ぞ知る画家の幻の絵──作品リストに文字情報でしか載っていない(つまり実物は誰も知らない)絵──の贋作である。
そうした贋作のほとんどを、日本の複数の美術館が高額を出して買ってしまい、被害総額は40億円に上るのだと言う。贋作だと分かる前日まで、皆が「良い絵だ。素晴らしい」と言っていた。愛されていたのだ。
「怒りと言うよりも悲しい。誰もが本物だと信じて見ていた」
美術館の担当者はそう声を詰まらせた。
ベルトラッキ自身は「罪悪感? ありません、一度も。どうして?」と開き直る。まるで、お前が愛していたのはこの絵なのか、それとも元の作者の名前だったのか?と言わんばかりに。
画像引用元 朝日新聞GLOBE+

