書籍『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(花田菜々子)

【世の中はすべてヤリモク】
DNAの二重らせん構造を解明したジェームズ・ワトソンは言います。
「私のやってきたことはすべて、きれいな女性に会いたいという一心から」だと。
本書の著者が出会ったその人に合う本を薦めるために活用したのは、いわゆる「ヤリモク」の出会い系サイトではないようですが、ワトソンの言葉を踏まえつつエピローグを読むと、どんなに取り繕っても──たとえば「交流のネットワークを形成する」みたいなことを高尚に言ったとしても、結局はヤリモクだったようにも思えます。
こんなことを言うと、この本を支持する人から「暴論だ!」とお叱りを受けるでしょうし、ワトソンの偉業と同様、著者のやり遂げた稀有なチャレンジに失礼な気もしますが、だからと言ってもちろん駄目だとか、価値がないなどと言いたいわけではありません。
そうじゃなくて、我々に生殖本能がある以上、人間の活動はすべからく生物学的な衝動(すなわちヤリモク)から自由ではいられないのでは?と言いたいのです。
そもそも、そうした人間社会の縮図のような出会い系サイトで出会った人に、その人に合った本を薦めることの意味とは何なのでしょう。
私設図書館を運営している私もご利用者の一人ひとりに合いそうな本を薦めることができたら、どんなに素敵なことだろうと思います。同じことは、『お探し物は図書室まで』(青山美智子)を読んだときも感じました。
読んだ本の数なら私もそれなりだと自負していますが、私には到底できそうもありません。なぜって、ほとんど憶えていないからです。ショーペン・ハウエルは「読書なんて50分の1も残らない」と言ったそうですが、本当にその通りだと思います。
それともっと大きいのは、少し接したくらいでは、その人の何もわからないからです。そんな私が「貴方にはこれ!」などと提示して見せるのは少し傲慢にも思えて気が引けるのです。単に読書の量やセンスをひけらかしたいだけ──ひいては出会ったその人に自分をより良く見せたいという例の生物学的な衝動にも思えます。
村上春樹の短編『ドライブ・マイ・カー』に登場するとある人物は、
「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない」と言います。
だからこそ私は1対1で面と向かって本を薦めるのではなく、読んで面白かった(あるいは面白くなかった)本に絡めて、私自身を(私の恥部を含めて)見つめる様を一方的にここでさらけ出すことで、その本を読んでみたいと思う人が一人でもいればそれで良いと思っています。
それとて、DNAに組み込まれた生物学的な衝動に過ぎないのかもしれないのだけど……。