書籍『テロ』(フェルディナンド・フォン・シーラッハ)

【あらためてトロッコ問題を考える】
ドイツ上空でテロリストにハイジャックされた旅客機には164人の乗客・乗務員が乗っていた。行く先は英国対ドイツの国際試合が行われ、7万人を収容しているサッカー・スタジアム。テロリストは旅客機を突っ込ませ、自爆テロを敢行しようというのである。
そこに現れたるはドイツ空軍のラース・コッホ少佐が乗った戦闘機。少佐はマニュアル通りハイジャック機の進路妨害や警告射撃を試みるも効果はなく、スタジアムまであと25キロ、時間にして数分というところで、やむなく旅客機を撃墜する。
戯曲の体裁を取る本作は、コッホ少佐の行為が有罪か無罪かを法廷で参審員(ドイツ一般市民から選ばれ、任期中は職業裁判官ととも法律問題を判断する)によって裁かれる様子を描く。
これは、哲学や倫理学で言うところのいわゆる「トロッコ問題」である。暴走するトロッコ本線の行く先には5人の作業員がいるが、手前で支線に切り替えれば犠牲者は1人となる。そんなとき、ポイントを切り替えるレバーを持つ貴方はどうすべきか──というお馴染みのアレである。
多くの人は、そんなの簡単だ、犠牲のより少ない方を選ぶべきだと言うかもしれない。ましてや、7万人と164人では言うまでもないと。最大多数の最大幸福を追求する功利主義の考え方である。
しかし、ドイツの最高裁判所に当たる連邦憲法裁判所は、「無辜の人の生命を救うために他の無辜の人を殺すことは違憲である」としている。つまり、生命を他の生命と天秤にかけることは許されないと。
これもまた、もっともである。一つひとつの生命に無限の重みがある以上、人数の多寡は意味を持たない。
本作に登場する被告人コッホは、国をテロから守るという強い使命感のもとでやや視野狭窄的な思考を持つ。その一方で、コッホを起訴した検察人はあまりに机上の理屈に固執し、現場の切迫した状況を理解できないようだ。
ちなみに、本作では有罪・無罪双方の結論が用意されている。どちらが妥当であるかは読者が考えろと言うのだろう。
私は、有罪か無罪かを問うのであれば、有罪だと考える。我々が憲法を頂点とした法治国家の一員である以上、それに逸脱した行為はいくら多くの命を救ったとしても有罪としなければ、我々の生活は成立しないからである。
しかし、その量刑は状況を酌量して著しく軽いもので良いように思う。現実にこんなことが起これば、思考実験などしている暇はないのだから。
玉虫色に過ぎるだろうか……。