書籍「構造デザイン講義」(内藤廣)
【何かを構築する意思とデザイン】
東大の土木工学を専攻する学生に対し、建築家の内藤廣氏がデザインについて講義した内容を収めた画期的な本である。この「構造デザイン講義」のほか、「環境デザイン講義」と「形態デザイン講義」がある。
何が画期的かって、前に何処かで書いたような気がするが、土木と建築というのは、あまり仲がよろしくない。その文化の違いは、旧帝国陸軍と同海軍ほど違うと言った人もいる。分かったような、分からないような例えだが、要するに互いに考え方が異なり協調性がないということだ。そこに踏み込んだという意味で画期的なのである。
この辺りは、そもそも土木と建築の違いも分からないであろう一般の方には意味不明な話かもしれない。もっとも、それらを生業としている双方の当事者だって、道路や橋を造るのが土木、建物を建てるのが建築ぐらいに思っている者が大半なのだ。土木工学と建築学というように学問体系が分かれたのは17世紀以降だと何かで読んだ記憶がある。たしかに、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは、土木構造物も作ったし、建物も建てた。どちらも創作対象の一つに過ぎなかったのだろう。
内藤氏はこの一連の講義の中で、建築(アーキテクチャー)とは、「(何かを)構築する意思」だと定義している。その何かは、橋梁やダムなどの大規模な土木構造物かもしれないし、建物かもしれない。はたまた、コンピューターのOSのような何かのシステムだって構わないのだという。その意味では、土木・建築の違い(ましてやそれらの文化の違い)に拘る当事者よりも、一般ピープル感覚の方が正しいのである。
とはいえ、だ。未だに土木技術者の中には、デザインなどはしゃらくさいと思っている者さえいる。あるいは、橋の欄干やトンネルの入り口に模様を描くのがデザインだと勘違いしている者も多い(たとえば、この本を読むまでの私だ)。内藤氏は、この三部作の中で「アーキテクチャー」と「デザイン」の関係をダイアグラムにして説明している。それに関して私の拙い理解をここで披露する気はないが、何かを構築する意思を持った者であれば、土木屋だろうが建築屋であろうが、ストンと腹に落ちること請け合いだ。
ちなみに、これだけ画期的な本なのに、じゃじゃの私設図書館ではこれまでほんの数回しか、貸し出されていない。ましてや三部作とも借りた人が一人もいないのは残念至極なのである。