書籍「村上朝日堂はいはいほー!」(村上春樹)
【世界のムラカミも言っている】
それはある朝、未だベッドの上でまどろんでいた私に、何の意味脈略もなく降りてきた。
「村上春樹は標語なんか嫌い──」
まるで、宗教者が受ける天啓のように、すっと降りてきたのである。
たしかにその前夜、私は彼の最新刊「街とその不確かな壁」を遅ればせながら読んで就寝した。しかし、件の小説には標語云々は出てこなかったはず……。
早速、ネットで「村上春樹 標語」と検索してみると、やはりヒットした(流石は天の啓示!)。エッセイ集である本書で「標語など意味があるのか」と嘆いているという。私は、彼の小説はほぼ読みつくしていると思うが、エッセイは逆にほとんど読んでいない。当館の蔵書にあったので、取るものも取り敢えず読んでみた。
それは「狭い日本、明るい家庭」というタイトルの稿にあった。なんと! ここにある彼の主張は、まさに私が過日、「醜い日本の私」(中島義道 著)の書評で書いたことと、ほぼ同じではないか。むろん、それぞれ重きを置くところは──彼は標語に使われる日本語の拙さについて、私は街並みを損なうことについて、と──違うにせよだ(彼も「街を汚しているだけ」と述べている)。
思わぬところで心強い援軍を得た気分である。というのは私は以前、浜松の街に標語の看板が多すぎると指摘したところ、
「街は雑多なものがあるから面白いんですよ。そうしたものを楽しむ余裕がなきゃ」
と窘められたことがあるからだ。そのときは、何だか自分がひどく了見の狭い人間のようで居たたまれなかったのだが、村上はその辺りをこう言っている。
あるいは僕はどうでもいいようなことに対して、いちいち文句を言い過ぎているのかもしれない。でもちょっと考えてみて欲しい。日本国中から今ある標語ポスターとか看板とかを一枚残らず取り去って海に捨てちゃったとしてもたぶん誰も困らないですよ。絶対に。犯罪だって、事故だって、いじめだって、選挙の棄権だって、汚職だって、強姦だって、アル中だって、覚せい剤だって、標語があって減るものじゃないし、逆になくなって増えるものでもない。
まったくもって私もそう思う(もちろん、要らないからと言って海に捨てちゃ駄目だけど)。でも、世界のムラカミを含めて私たちは少数派なんだろうな。だって、街には相変わらず無意味な標語が氾濫しているもの。