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書籍「未曾有と想定外」(畑村陽太郎)

書籍「未曾有と想定外」(畑村陽太郎)

【想定外を想定したら想定内】

「想定外を想定せよ」という言葉が一時期よく使われた。東日本大震災に伴う福島第一原発の事故で、東京電力の技術者等が「想定を超える〇〇で……」と言い訳を連発したことから、それを批判する中で生まれた言葉だったように記憶している。

しかし、この言葉は論理として破綻している。想定外を想定した時点で、それは想定内となるではないか。不思議なことを言うなあと私は思ったが、当時はとてもそれを指摘できる雰囲気ではなかった。

また実際問題としても、想定自体を広げることはいくらでもできるが広げれば広げるほど、その対策に要するおカネは莫大に膨らむのである。一方で、その広げた想定が起きる確率はどんどん小さくなる。

一例として──、郊外の山林・原野において住宅地等を開発する際に、樹林の伐採に伴い大地の保水能力が低下する。このため、雨水の河川への流出量が増加し、大雨の時に洪水の危険性が高まる。これ防ぐには、調整池という大きな窪地を用意して、そこに流出した雨水を誘導し一時的に溜める必要がある。

どの程度の大きさの調整池を用意するかは、どの程度の雨が降るのかを想定して決めることになる。通常は30年に1回降るような大雨(30年確率の雨という)に対応した調整池を設ける。

もちろん50年、いや100年確率の雨にまで想定を広げて巨大な池を造れば大きな安心が得られるだろうが、そのコスト(用地費・工事費)は指数関数的に増える。結果として、庶民が買えるような低廉な宅地の供給はできなくなる。

以上のように、どのような対策もどこかで想定の内外を分ける線引きをせざるを得ない。「想定外を想定せよ」というのは情緒的には理解できるが、実際にはそれを言ったとたんに、対策の現場は思考停止になったように思う。

本書の著者は失敗学の権威で、私も著書のひとつ「技術の創造と設計」には大いに感銘を受けた一人である。だが、民主党政権下で福島第一原発の事故調査・検証委員会委員長を務めた際には、ぱっとした実績を残せなかった印象がある。

もちろん、政治的な立ち回りが要求される中で、難しい立場ではあったと思うが、失敗学が机上の空論のようにみえたのは残念なことだった。

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