書籍「大衆の狂気 ジェンダー・人種・アイデンティティ」(ダグラス・マレー)
【他人を罰しようとする狂気】
今日の社会では性差別、同性愛への偏見、人種差別等に代表される「社会的不公正」を正そうと、あらゆる立場の人がそれぞれの権利を主張することができる。もちろん、それ自体は良いことに違いない。
しかし中には何かというと「欧米では……」という論調で、この種の問題では欧米社会がいかに先進的で、優れているかのように喧伝する向きがいるが、本当なのだろうか。
たとえば、英国には平等法という法律があって、年齢、障害、性適合、婚姻及び市民的パートナーシップ(同性婚)、人種、宗教・信条、性別、性的指向を理由とする差別を禁止していることが知られている。この法律に関連して、過日の新聞でこんなコラムが載っていた。
とあるリサイクル工場で、66歳の男性が年下の従業員から作業中に椅子を差し出されたことを不服として訴訟となった。なんとその裁判では、他の従業員が立って働くなかで年長の従業員に椅子を勧めることは「不利な処遇」にあたり、平等法違反に相当するとの判決が下された、と言うのである。
もちろんコラムの内容だけでは事の真相は不明だ。年下の従業員の行為は無垢な思いやりに基づくものだったかもしれないし、実は嫌がらせの一種だったのかもしれない。
だがいずれであっても、英国では今後、年寄りに椅子を進めることができなくなるに違いない。これは、日本でもよく聞く電車やバスなどで高齢に見える人に座席を譲ったら、「年寄り扱いするな!」と怒鳴られたという話とはまったく次元が違う。善行をしたら、法律で罰せられる(可能性がある)のだ。
本書を読むと、欧米での「社会的公正」を目指す人たちの行き過ぎた行動、矛盾、セクター間の対立等が余すことなく記されていて、あらためて欧米こそがそれらの問題で混乱の極みにあることが良くわかる。特にひどいと思うのは、時代を遡ってまで、今の規範で当時の言動を罰しようとする風潮だ。その分野の先駆者やレジェンドさえもが、かつての発言を対象につるし上げられる。
これは、社会的公正という大義を掲げた言論統制である。しかもその統制者は、主にネット民と呼ばれる大衆で、顔が見えないのだ。糾弾するだけで結果がどうなろうと責任は取らない。たぶん、彼らは社会的公正などどうでも良いのだ。誰かの落ち度を探して、罰することさえできれば……。特に、ジェンダーレス、フェミニズム、ルッキズムなどの関連は難癖をつけやすい。
日本では幸いなことに、未だそうした兆候は一部にしか見られない。がしかし将来、私の今現在のこうした記述もやり玉に挙げられる日が来るのかもしれない。そんな社会は果たして本当に公正なのだろうか。