映画『罪と悪』(主演 高良健吾)
【閉塞感は自分が作っている】
「この街の大人は近所の顔色を気にしてばっかりだ」
と言った少年の言葉に象徴されるように、この映画のテーマは田舎の閉塞感だろう。それは田舎という地域社会が持つ宿命と言っても過言ではあるまい。その閉塞感が観ている者の心に終始、通奏低音のごとく重くのしかかる。
田舎の持つ閉塞感──こう書いてしまうと、手垢のついた陳腐な言い回しだが、私はそれを東京に行くたびに逆説的に実感する。
私は郷里・浜松に戻り5年経った今でも仕事の関係で度々東京を訪れるのだが、その都度新幹線を降りた瞬間に何か精神が解放されるような気がするのである。
あの雑踏の中で私は何者でもない。行き交う人々は誰もが私のことなど知らないし、私になど関心を示さない。圧倒的な匿名性が確保される。そんな安心感が心地よいのだ。
もちろん、浜松だって今や人口80万人に届かんとする政令指定都市だから、ほとんどの人が私のことなんか知らないし、関心もないのは同じだろう。しかし、何故だろう。例えば、クルマの運転一つとっても、交通量で言うなら東京より圧倒的に少ない浜松での運転の方が私はキンチョーするのである。キンチョーというのは流石に大袈裟だが、気を遣うのは確かだ。
それはおそらく、地域社会の目(近所の顔色)を気にするからだろう。まさに冒頭で紹介したこの映画のセリフが象徴するように。
だが、それは多分間違えている。地域社会の目なんて、もうとっくに有りはしないのだ。私が育った子供時代にはあったのかもしれないが……。
この映画の登場人物たちの抱える閉塞感もまた、かつて少年であった彼らが勝手に作り出した妄想に過ぎないのではなかったか。その妄想が大人になった今の彼ら(の本質)を決定づけている。地域社会は時代とともに変わっているのに、人間の本質は中学生だったあの頃と変わっちゃいないのだ。
ところで、東京の匿名性がそんなに心地よいのなら何故浜松に戻ったのかと言わるかもしれない。それは、根無し草としての心地よさはときに不安と背中合わせであることに遅まきながら気付いたからである。
画像引用元 ファッションプレス

