映画『かくしごと』(主演 杏)
【二つの贖罪物語】
主人公・千紗子は認知症の父・孝蔵を介護するために戻った郷里で、親の虐待から逃れた男の子・犬養洋一をかくまう。洋一に過去の記憶がないのを良いことにして、千紗子は周囲に自分の子・拓未だと偽り、暫くは孝蔵の認知機能の衰えに手を焼きながらも平穏に暮らす。しかしそれも束の間、ほどなく洋一の実父に見つかってしまう。
千紗子とその男がもみ合いになっているところを、拓未(洋一)が男──つまり彼の父親──の背中を木工ナイフで刺す。千紗子は落ちたナイフをとっさに拾い、既に絶命したかと思える男にまたがり、正面から刺して自分が殺したという既成事実を作る(クライマックスのネタバレになってしまい、申し訳ない)。
なぜ、そんなことをしたのか。もちろん洋一(拓未)をかくまううちに情が移ったということもあろう。だが、もともと誘拐の嫌疑をかけられるリスクが高いなかで、彼を自分の子として育てることにしたのは、彼女が幼くして亡くなった我が子に彼を重ねたからである。その彼の将来を思って、自分が罪を被ったのに違いない。
私は一瞬、千紗子が認知症の孝蔵に罪をきせるのではないかと考えた。事実、千紗子ともみ合う男に最初にナイフを向けたのは孝蔵だったのだ(が、男に文字通り一蹴された)。日一日と認知症が進む孝蔵には先がない。たとえ、罪に問われたところで責任能力に鑑み情状酌量の余地が大きい。そう彼女が考えたって不思議ではない。
だが、千紗子はそうはしなかった。拓未の前で誠実でありたかったからだろう。
それは分かる。分かるが、私は私と歳の近い孝蔵のことを考えてしまう。孝蔵の立場で考えれば──もちろん認知症の彼がそこまで考えられたかは疑問だが──、やはり自分に罪を被せて欲しかったように思う。
孝蔵は、千紗子に子供の頃から厳しく接してきた。むろん娘を思ってのことではあったが、後悔もしている。さらには自分が老い先短いことも自覚している。最後に娘にしてやれることがあるとすれば、何だってしてやりたい──、私ならそう思う。
この映画は、亡くした息子への千紗子の贖罪物語であると同時に、孝蔵の千紗子へのそれのようにも私には思えた。
画像引用元 東京新聞

