映画「生きる」(監督 黒澤明)
【人として生を受けて……】
これまでも何回か書いているように、もういつ死んでも良いと嘯いている――というか、死にたいと積極的に思わなくても、これ以上生きたいとも思わない、というミシェル・ウエルベックの小説の主人公に痛く共感する。要するに、これ以上生きていても特にやりたいことがあるわけではないし(この私設図書館は出来るだけ長く続けたいとは思っているが)、ましてや何か良いことがあるとは思えないのである。
この場合の、生きていて良いこと――とは何なのかは長くなりそうだから別の機会に譲るとして、ここでは本当にいつ死んでも良いという覚悟が私にあるのかを自問したい。
例えば、本作の主人公のように、ある日自分が癌に侵されていることを知らされるとする。そして、治療をすれば5年後の生存確率は50%だとする。そのとき、私は治療を希望するだろうか。癌の治療が当人にとって楽なものでないことは亡き妻の例を見るまでもない。70%の生存率と言われたら治療を望むのだろうか。30%だと言われたら、治療を望まないと言い切れるだろうか。
これ以上生きていても良いことなどなさそう――というのは、悪いことの方が多そうだということの裏返しでもある。身体の機能は落ちていく一方だろうし、認知症になる可能性だって少なからずある。いずれ介護が必要とされ、子どもたちや他人様に迷惑をかけるに違いない。先に行けば行くほど、その可能性は高まる。
一方、今死ねばそうした心配はない。なけなしの資産も今がピークだろうから(今後は目減りしていくばかりだ)、子供たちに遺せるのも少ないながら今が最大だ。
そう考えると、たとえ生存率70%と言われても、治療を選択するのは合理的とは言えまい。もちろん、治療をしなければ、楽に死ねるわけではない。むしろその逆だろう。モルヒネなどにより痛みの緩和が進んでいるとは聞くが、多かれ少なかれ苦しんで死ぬのである。だが、それは先に行っても同じだ。要は早いか遅いかだけだ。
だとすると、もういつ死んでも……と本当に思えるかどうかは、この主人公・渡辺勘治のように、人として生を受けた自分がやるべきことをやったと思えるかどうか――にかかっているように感じる。果たして自分はどうだろう?
そんなことを言ってられるのは、未だ健康でその立場になっていないからだと、実際に闘病されている方からお叱りを受けるかもしれない。たしかにその場になれば、理屈抜きで「生きたい」と思う自分も何となく予感できるのである。
画像引用元 TELASA