映画「ドライブ・マイ・カー 」(監督 濱口竜介 主演 西島秀俊)
【本当に他人を見たいと望むのなら自分を見つめるしかない】
映画化された村上春樹作品を観るたびに、「こんな話だっけ?」と思い、原作を読み直すのが半ば習慣になっている。だが、ほとんどは「ああ、たしかにこんな話だった、こんな話だった。意外と原作に忠実だな」などと納得する。「バーニング」(納屋を焼く)しかり、「ハナレイ・ベイ」しかり。
しかし、これは少なくとも原作に忠実とは言い難いだろう。ストーリーもだいぶ異なるし、登場人物の設定もかなり変えている。舞台のほとんどは東京ではなく広島だ。果ては、原作が収められた短編集「女のいない男たち」にある別の話も織り交ぜられて、まるで違う物語になっている。
そして何と言っても、村上作品特有の何も回収されない読後感はここにはない。むしろ説明的に過ぎるのかもしれない。おそらく、そうした批判の声はあるだろう。たとえば終盤にドライバー渡利みさき(三浦透子)の故郷・北海道を訪ねるくだりは蛇足だとか、あるいはラスト5分の韓国のシーンは蛇足を通り越して単に不要だとか……。
だが、だからと言って不満はない。これが、監督・濱口の解釈だからだ。村上作品の埋まらない行間や回収されない読後感に、彼なりの答を映像にして示してくれたのだから──。冒頭で書いた毎度の「こんな話だっけ?」もその辺りに理由があるのだろう。要するに村上の原作は人それぞれの解釈ができる。そこが魅力だ。
この映画では、北海道行きを前にして、妻の浮気相手だった高槻(岡田将生)と主人公・家福(西島秀俊)が交わした車中でのダイアログが白眉だ。このクライマックスでの演技は岡田が優っていたと思うのは私だけだろうか。
いずれにしろ、この作品の主題──どれだけ愛している相手であっても他人の心をそっくり覗き込むことはできない。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない──は、そのままこのワンシーンに凝縮されていた。
たまたまネットで見かけた映画監督・井筒和幸の批評は「ひたすら陰陰滅滅とした男女を3時間も見せられてはたまったものじゃない」というような手厳しいものだったが、たしかに何の予備知識もなく本作を観たら、私も同じような感想を抱くのかもしれない。その意味では、これは村上の原作を読んでいることが前提のような映画ではある。
その原作は短編なのであっという間に読めるし、読めば映画の理解も深まること請け合いだ。私はこの映画を観た後、原作を再読し、そしてもう一度この映画を観た。そうせずにはいられなかったのだ。
第94回アカデミー賞の主要部門を含む全4部門でノミネートを果たした本作であるが、この稿の執筆時点において結果はまだ出ていない。
画像引用元 社会の独房から