映画「オットーという男」(主演 トム・ハンクス)
【老後を生きるためのレゾンデートル】
死んだ妻が今も生きていたら、私たちは今頃どんな夫婦になっていただろうか──。そんな愚にもつかないことをときどき考える。
配偶者を持つ同年配の人が相手のことを良く言うのをあまり聞かない。基本的に別行動で、相手のことは無関心・不干渉という夫婦も多いと聞く。私たちもそうなっていたのだろうか。
また、彼らが連れ合いによって時間やおカネの使い方──ひいては生き方すら制約されているようにみえて、なかなか気の毒である。
もちろん、見るからに仲の良さそうな夫婦もいるし、たとえ悪し様に言う人であっても、いい歳をしてノロけるわけにもいかないから、あえてそんな態度をとっている、という可能性だってある。
不思議に思うのは、相手を悪く言うばかりで、仲が良いとは思えない夫婦であっても連れ合いのいる人の方が、私のような独り身の中高年より老後を生きる気力が旺盛なことだ。
もちろん、そんな統計データはないのだろうから、私の印象論に過ぎない。が、上手く言えないのだが、長寿を全うしたいと願うのは連れ合いがいるからではないのか──。仲が悪いのに? その辺の機微が、30代前半で妻を亡くしている私には分からない。たぶん他人が見るほど仲が悪いというわけでもないのだろう。
いずれにせよ、連れ合いのいる人は生きる気力が旺盛なように思える。しかしそれは連れ合いがいなくなったら、その気力が萎えるということの裏返しでもある。たとえば、このオットーのように。彼は、妻の死に加えて仕事もリタイアさせられたから、公私ともに己のレゾンデートルを失ったのだろう。
分かる。私の場合は妻が死んだその時から、未だ幼かった子供たちを育て上げなければならないという使命が与えられたので、生きる意味など考える暇もなかった。さらにはそれを全うするうちに企業組織の中で自己のレゾンデートルも確立していくこともできたから、尚更だ。しかし、既に子供たちは巣立ち、企業組織を退いた今となっては、彼の気持ちはよく分かるのである。
もちろん、だからと言って、途中までのオットーのように自らの手で人生を終わらせるつもりはない。映画の後半、彼がコミュニティのなかで自分の存在意義を見出したように、私もこの私設図書館でそれを見出しつつあるからである。
画像引用元 SCREEN ONLINE