映画「ある男」(主演 妻夫木聡 安藤サクラ)
【なりすまし、アイデンティティ、そして信用】
私は──、いや私たちは自分以外の人のことをどれだけ知っているだろうか? 世の中のほとんどの人のことは何も知らない。
だが、日常よく見かけて顔くらい認識できる人はいる。でも多くの場合、名前も知らない。
もちろん、名前も分かっている人もいる。さらには、職業とか年齢とか、電話番号といった多少の属性や個人情報を知っている人も。
あるいは現在のことだけでなく過去すら、ある程度なら知っている人だっている。当たり前の話だが、身近な人間になればなるほど、その人のことをよく知っている。たとえば、自分の子供のことなら、過去のことも完璧に把握している。
本当だろうか? 子供が幼いうちならまだしも、成長するにつれ知らないことが増えていく。血のつながった我が子ですらそうなのだ。ましてや配偶者のことなど、どれだけ知っているというのか──。
死んだ亭主が生前名乗っていたのは違う人の名前だった、という話である。離婚して小学生の息子を持つ里枝(安藤サクラ)は、戻った実家の文房具屋を頻繁に訪れる男・谷口と親しくなり、再婚する。やがて娘も生まれるが、男は連れ子の息子にも優しく接し、一家は幸せな日々を送る。
しかしその絶頂のなかで、男は仕事中の事故で急死。一周忌に訪ねてきた親族が遺影を見て谷口本人でないことが発覚し、里枝から依頼を受けた弁護士・城戸(妻夫木聡)が身元調査を始める。
その後の詳細はネタバレにもなるので、ここでは割愛するが、この映画を観ていていくつかの言葉が浮かんできたので、それらについて考えたい。
まず浮かんだのは単刀直入に「なりすまし」という言葉である。多くの場合、そうすることによって詐欺行為を働き、不当な利益を得る。がしかし、この男はそれに当たらない。
次に出てきたのは「アイデンティティ」という言葉だ。よく「自己同一性」などと訳されるが、あらためて辞書で調べると「自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること」とある。なるほど、この男の場合、名前は不連続ではある。しかし、だからと言ってなんだと言うのだ?
で結局、行き着いたのは「信用」という言葉だ。およそ我々人間の営みは、信用に依拠している。だが、その信用はどこから来るのか? どんな会社に勤めているとか、どの学校を出ているとか、どこに住んでいるとか、そんな属性や情報は補足要素にはなり得ても、当人の本質には関係ない。氏素性、いや名前すら関係ないのだ。
要するに、信用とは実際に接して、それを続けることで醸成するものだ。里枝親子はまさにそれをやったのだ。だから、男がどこの誰であろうと、確かなものが残った。城戸の家族はそれができていないようである。
画像引用元 シネマカフェ