新書『戦国日本と大航海時代』(平川新)

【理由は一つではない】
本書は「なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか」を出発点として、その後の徳川の時代に鎖国政策を取るに至った経緯を詳らかにする。秀吉の朝鮮出兵から江戸時代の鎖国に至るまでのなぜ?はとりもなおさず、当時のヨーロッパの列強からすれば、なぜ日本という国を植民地にできなかったのかということと同義であるようだ。そのような見方をしたことはなかったが、それは確かにその通りなのだろう。
「なぜ秀吉は朝鮮に……」について言えば、彼は全国平定を成し遂げたものの家臣家来に与える領地が国内に無くなったので、海外にそれを求めたという説が有力である。あるいは晩年の秀吉は正気を失っていたとも評される。
それに対し、著者はスペインやポルトガルの植民地政策に対抗(あるいは抵抗?)するために、攻撃こそ最大の防御とばかりに、朝鮮ひいては大陸に打って出たのだと主張する。そして、そのことがスペイン等から日本を帝国として、また軍事大国として位置付けられたと言う。彼らにして東南アジアやフィリピン等を容易に侵略したようにはいかないと認識させたのだと。
そうした列強の日本に対する認識は家康や秀忠の徳川時代になっても変わらず、代わりに貿易と表裏一体化した布教を通して日本を内側から瓦解させる方針に転換したようだ。それが後の禁教ひいては鎖国につながったというように私には読めた。
そう考えると、秀吉の朝鮮出兵がすべての始まりだったわけであるが、物事の理由はいつだって一つではないはずだ。もちろん、著者の言うように列強への対抗という側面もあっただろうし、定説である領地拡大という面もあったに違いない。
それらに加えて、私はそもそも当時、国境などという認識があったのかと思っている。出口治明氏の著した『仕事に効く教養としての世界史』によれば、5世紀ごろの倭という国は朝鮮半島の南側と北九州が合わさった国だった可能性があるそうだ。だとすれば、その認識が秀吉の時代に残っていても不思議ではないような気がする。もともと日本の一部だという認識である。
つまり秀吉からしたら、とりあえず九州までを平定したのだから、次は朝鮮半島──という程度の考えだったのではないか。我々は今日の国境が頭にあるから、どうしてもそこに大きなジャンプアップを考えてしまうが、当時の人にとってはごく自然な成り行きだったようにも思えるのである。
いずれにしても結果として、この国は植民地化を免れた。だがその反面、近代化が大きく遅れたというのも事実である。それが良かったのか、悪かったのかは私には分からない。