小説『逃亡』(帚木蓬生)

【戦犯処刑と優越的地位の濫用】
主人公の守田や熊谷は、いったい何から逃げていたのだろうか──。
守田は戦前、百姓仕事やクリーニング店勤務に身が入らずにいたが、出征した中国で憲兵試験に受かり、熊谷らと一緒にその任務に邁進した。数々の功績を上げるも、その甲斐虚しく広東で敗戦を迎える。
戦犯として告発されることを恐れた彼は、命からがら邦人収容所に紛れ込み、何とか引き揚げ船に乗り込む。帰還後暫くは郷里の九州で身を縮めながら妻子と暮らすが、程なく戦犯として警視庁ひいてはGHQに追われる身となる。そして日本各地を転々としながら逃亡を続けたあげく、結局は茨城で逮捕され、香港での裁判を待つ身となる。
さて、守田は敗戦直後の中国に居た頃は中国人や英国人から、復員後はGHQや日本の警察から逃げていたのは確かである。しかし、彼が本当に逃げていたのは、かつての自分からだったのではないか。憲兵になった守田は水を得た魚のように任務を遂行した。日本のためだ、天皇陛下のためだと言いながら。中国人を殺し、英国人を殺した。あるいは、占領下の彼ら市民住民を虐げ続けた。
そこに嗜虐的な喜びが一切なかったとは言い切れまい。日本のため、天皇のためなどというのは大義名分に過ぎず、むしろ占領軍の憲兵という優越的地位を濫用して非道なふるまいを楽しんでいたのではなかったのか。楽しむというのは言い過ぎにしろ、それを当然のことだと思っていたのではなかったか。
私がそう思うのは、それが人間の隠しがたい一面だと確信するからだ。平和な現代のこの国においてさえも、そうしたことは普通に行われている。自らの優越的地位が安泰な場合、人は当然のように非道なことをする。彼らの多くは、それを楽しんでいたり、自らのストレス発散に利用したりする。
だが現代日本であれば、やった方は皆、直ぐに忘れてしまう。靴を踏んだ者は踏んだ相手のことなど憶えちゃいないのだ。たとえ、それが故意であったとしても。私も踏まれたことばかり憶えているが、踏んだこともあったのかもしれない。そうなるのは、守田のように戦犯として罰せられる恐れがないからだ。
守田は誰かの靴を踏んだことを忘れることができなかった。忘れていたとしても、戦犯として処刑される恐怖が、その一つひとつを思い出させる。つまり、守田はそうした過去の自分から逃げていたのである。
現代社会でも優越的地位の濫用を防ぐ仕組みはあることはある。だがそれは、告発者への報復を恐れて実際には機能していない。