小説『小僧の神様』(志賀直哉)
【単なる善行物語?】
本作は当館の前回読書会の課題図書であった。内容的には高校の教科書などでお馴染みだと思うが、軽くお浚いしよう。
神田の秤屋に奉公している小僧の仙吉があるとき、使いに出された帰りに屋台の鮨屋に立ち寄る。だが、その値段の高さに怯んで食わずに立ち去ってしまう。それを傍らで見て不憫に思った貴族院議員のAがたまたま入った秤屋で小僧を見つける。買った秤を小僧に運ばせて、そのお礼にと鮨を奢ってやるが、Aはなんだか淋しい、嫌な気持ちになる。一方、仙吉はAを神様やお稲荷様のように崇めるのだった──という話である。思い出して頂けただろうか。
今日的な感覚で読むと、善行を施したAがそれを思い悩むのは奥ゆかしい美徳と捉えがちだし、そのAを崇める小僧に無垢の心を見出して、総じてなんだか心温まる好い話としてみてしまう。
だが私は本作のような近代文学を読み解くには、当時の時代背景や社会構造を理解することが不可欠だと思っている。たとえば、川端康成の『雪国』の主人公は無為徒食でありながら、なぜ東京に妻子を残したまま越後湯沢で芸者と現(うつつ)を抜かせるのか? 太宰治の『斜陽』で描かれた華族はなぜ没落に苦悩せねばならなかったのか?
本作もAの貴族院議員という立場と仙吉の秤屋の丁稚奉公という立場が分からなければ、この話の本質は理解できないのだと思う。今日、格差社会などと言われているが、この時代の格差から比べれば現代の格差などないに等しい。
そこには想像を絶するような格差があったとすると、本作は単なる美談ではなくなってくる。
過日の読書会では、ある参加者から某大学教授が唱える「伊勢神宮(天皇派)である貴族院議員VS神田明神(反体制派)である庶民」の対立構造説が開陳された。参加者の多くは(開陳した本人も含めて)トンデモ説として捉えたようだったが、私はあながち的外れではないように思えた。
というのは、仮にも「小説の神様」と言われた作者が単なる善行の物語を書くのは、いかにも底が浅いように思えるからである。彼が本当に描きたかったのは、あの時代の絶望的とも言える階級の壁であり、その社会構造が抱える暴力性だったのではないだろうか。

