News 2025.03.31
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小説「薬指の標本」(小川洋子)

小説「薬指の標本」(小川洋子)

【指フェチって言うな…】

Jの家のリビングには、大きなモノクロ写真が飾ってある。サイズにして横110×縦90センチメートルだから、それなりの存在感である。

その写真には女性の両の手だけが写っている。カメラは前腕から先しか捉えていないから、女性かどうかは本当のところ分からないが、被写体の様子からこれは明らかに女性の手である。

明るい陽射しの中で前腕の産毛が光っている。左右の手のひらは小指の側を合わせて上を向き、濃いマニキュアの塗られた10本の細長い指が、今まさに何かを下からそっと触るように半ば折り曲げられ……、その影が涼しげな白い下地に落ちている。まるで影絵を描くように──。

見方によっては少々エロチックと言えなくもない写真だが、Jは一人暮らしなので誰に気兼ねすることなく堂々と飾っている。にしても何故そんな写真なのか──、実はJは女性の身体で最も好きな部位(の一つ)が手の指だからだ。

いわゆる「指フェチ」なのかもしれない。が、女性の指を見たからと言って性的な興奮を覚えるわけではないので、J自身はフェチではないと言っている。単純にそのシルエット、フォルムが好きなのだと。

もちろん女性の指であれば誰のでも良いわけではない。だが、だからと言って(当たり前の話だが)、指の姿かたちで女性を好きになることはない。ただ、愛した女性の指が彼の好みじゃないと、多少がっかりしたことは何回かあるらしい。幸い、彼の妻の指は生前美しかった。

弟子丸(でしまる)氏の標本室をJが訪ねたのは、桜の蕾がほころび始めたある日の午後だった。古びたビルの1階受付で、若い女性事務員──彼女は白いワンピースに不釣り合いな黒い靴を履いていた──が応対してくれた。

「で、お客様は何を標本になさりたいのでしょうか?」と、その女性はJに尋ねた。

「死んだ妻を標本にして欲しいのです」

「さようでございますか。奥様がお亡くなりになったのはいつのことですか?」

「もう35年以上前です。当然ですが、遺体はありません」

「標本は生態標本とは限りません。ご案内の通り、封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義なのです。奥様に関わるものがあれば遺体はもちろん、遺骨すら必要ありません」

「はい、承知しています。ですから今日は私の愛した、彼女の指の写真を持ってきました」と、Jは筒状に丸めた大判写真を差し出した。

女性事務員はそれを両手で広げ、上下左右に首を振って隅々まで検分しながらJに告げた。

「あとで標本技術士の弟子丸にも確認しますが、おそらく十分だと思います」

Jがいつもの癖で写真を持つ女性の指を見ると、彼女の左薬指は指先がほんの少し欠けていた。

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