小説「安楽死特区」(長尾和宏)

【死の疑似体験】
「セックスは小さな死である」と言ったフランスの哲学者がいるそうだ。意味不明である。某サイトの解説によればその意味するところは、「セックスによって人間は自他の境界線を忘却し、気を失うような性的絶頂を通して、疑似的な死の体験(死のシミュレーション)ができる」ということらしい。残念ながら私の拙い経験では、そこまでを実感できたことはなく、その真意は理解できない。
理解できないが、快楽の伴う死の疑似体験としては静脈麻酔(セデーション)がそれに近いのではないかと勝手に想像している。私はそれを定期健診の胃カメラ検査で体験した。そう、よく辛く苦しいと嫌厭される胃カメラで……。
とはいえ、最初から快楽を得られたわけでも死を疑似体験できたわけでもない。最初のときはどれだけ辛いのだろうと戦々恐々として検査台に上がった。横に寝かされ、静脈麻酔の注射を打たれた次の瞬間に肩を叩かれた。
「はい、終わりましたよ」
何が終わったのだろうと思っていると、「ええ、胃カメラの検査終わりました」と言うではないか!
「はい⁈」
私の中では、時間はずっと繋がっている。横にされて注射を打たれて肩を叩かれた、という一連の時間は決して不連続ではない。にもかかわらず、そこには私の知らない空白の時間が存在し、その間に私は胃カメラを飲まされ、傍らに居た男(医師or検査技師?)が私の体の中を覗いたらしいのだ。狐につままれたようで、あれは本当にびっくりした。
翌年の健診では、どういうことなのか見究めてやろうと思い、麻酔の注射をされた後、意識を集中した。しかしそれも束の間、次の瞬間には意識が遠のいていった。そのときである。その堕ちていくほんの僅かな間に、私はえも言われぬ心地良さを感じていた。それは多幸感ともいうべきものだった。そして気づくと「終わりましたよ」と言われた。
以来、毎年胃カメラ検査が待ち遠しくなった。もちろん、胃カメラというよりは「小さな死」を得られる静脈麻酔が、である。
本作の「特区」では、医師が安楽死を希望する患者に薬物を注射するのではなく、患者が好きなタイミングで医師から処方された薬を自ら飲むらしいが、いずれであっても静脈麻酔のように多幸感を得ながら死ねるのであれば、この特区大いにアリだと思う。
本作は今後の日本を考えるうえで、とても大事な問題を提起している。だが、クライマックスをドタバタ劇にしてしまっているのが実に勿体無い。
なお蛇足ながら、胃カメラの静脈麻酔は検査機関によって効かせ方がまちまちなようだ。浜松に転居して受けたら、あの堕ちていく多幸感は得られず、検査はただ辛いだけだった。以来、受けていない。