小説「坂の上の雲 」(司馬遼太郎 作)
【ウクライナ版「坂の上の雲」は書かれるか?】
本作を愛読書とする各界の名士は多いし、私の周りにもまた然り。若い頃からいずれ読まなくてはと思いつつスルーしていたのですが、還暦を過ぎてやっとその時機を得ることができました。
しかし文庫本全8巻を読了しても、どこが諸兄の絶賛に値するのかは正直分かりませんでした。もちろん血沸き肉躍る日露戦記としては面白いし、読みやすいとも思います。しかし、登場人物が人生に懊悩するわけではないし、描写が特に鋭いわけでもなく、さほど文学性が高いとは思えません。
そもそも本作は小説なのか、歴史書なのか──。「史実に基づいた小説」というのが正解なのでしょうけど、だとするならば何処までが史実で、何処からがフィクションなのか。それは最近私の胸に引っかかっている「同じ事象であっても、立場や見方によって、そこに見える景色は異なる」に行き着きます。さらにそれは、事実とは何なのか、あるいは真実とは何なのかという問題に終着します。
たとえば──話しは逸れますが、現時点でのウクライナの戦況が本当のところどうなのか、私にはわかりません。連日、新聞やテレビで報道されてはいますが、あくまでもこちら側からの分析で、多くは推測の域を出てないように思われます。
話の脱線ついでに言えば、一部の識者は今回の「ロシアの軍事作戦の稚拙さ」を指摘します。これについても、こちら側として「そうであって欲しい」というバイアスがかかっているような気もします。
しかし、もし本当にそうだとしても本作を読むと、何ら疑問は感じません。ロシアの戦争下手は、日露戦争以来だと思えるからです。当時も戦争前は物量に優るロシアが圧倒的に有利と世界中で言われたなかで、始まってみると拙攻に次ぐ拙攻を重ね、一方の日本軍も相当やらかしてしまったにも拘わらず、結果として大国ロシアは敗戦しました。
陸軍を指揮したクロパトキンにせよ、海軍の司令官ロジェストヴェンスキーにせよ、所詮は専制国家の官僚に過ぎなかったように思われます。官僚的立場から自らの保身をすべての作戦行動の決定基準にしたのですから(いますよねえ、こういう上司)。
それがかの国の体質ならば現在、ウクライナで戦っているロシア軍将校・将官が同じであっても不思議はないでしょう。ましてやウクライナ侵攻に何ら大義を感じていない(これもこちら側の見方だけど)兵卒に戦意があるとは思えません。その辺りも当時国内が革命気運で忠誠心のなかったロシア兵と通じるところがあります。
もっとも、その革命気運は日本の送った諜報員が盛り上げたとのこと。敗戦時「ロシアは内部から崩壊した」と言われたことを考えれば、時代の進んだ21世紀ではもっと巧妙に体制転覆を仕込んでいるのかもしれませんね。
話を元に戻します。そうしたことも含めて、すべては戦争が終わったあとで明らかになるのでしょう。しかし、その時においてさえ、明らかになった事象をどう解釈するかは、それぞれの置かれた立場や環境によって異なるのだと思います。将来、ウクライナ版「坂の上の雲」が書かれたって、おかしくありません。
本作が多くの人から愛される理由は、こうして身の回りの出来事や人物に置き換えて読むことが出来るからかもしれません。