小説「八月の路上に捨てる」(伊藤たかみ)
【心のもっと先で繋がる関係】
アメリカ人は人生で2回離婚し、3回転職するのが当たり前だと以前何かで読んだ。しかしアメリカも1960年くらいまでは一人の人と添い遂げ、終身雇用が普通だったともあった。
日本でも90年代くらいからだっただろうか、離婚や転職をする人間が身の回りでぼつぼつ出始めた。もちろん、それまでもいなかったわけではないが、どこか恥ずべきことのように捉えられていて、あまり声を大にして言うことではなかった。
それが今では、アメリカほどではないにしろ、身近な誰かが離婚したとか、転職したと聞いても少しも驚かない世の中になっている。良いことだと思う。
私はと言えば、転職はさておき、離婚は経験がない。一度しかない人生なら1回くらい経験した方が良かったかなあなどと嘯いたら、離婚経験のある女性から
「馬鹿ねえ、離婚って物凄いエネルギーが要るのよ」
と窘められた。まあ、その通りなのだろう。婚姻関係になくても、男と女が別れるとなれば一悶着も二悶着もある。あれの何十倍ものエネルギーが必要になるのだろう。何となくわかります。
「何十倍なんてもんじゃないわよ……」
とその女性は自嘲気味に笑ったが、それでもこれだけ離婚が当たり前の世の中になったのだから、それこそ本作にもあった「胡散臭いキャッチコピーのようにサラダ感覚で気軽に」、というわけにはいかないのだろうか──。いかないのだろうな。これを読むとよくわかる。
2006年の作品だというから、今なら少し違うのかもしれない。だが、基本はきっと変わらないと思う。それは結婚というものが、物語中で水城さんという女性が言ったように、心のもっと先で繋がるものだからではないだろうか。
「心のもっと先」とは一体なにか? 主人公・佐藤は「命」だとおちょくった。だが、私にはそれが妙に腑に落ちた。心で繋がる感覚ならフツーの恋愛でもあることはある(多くは勘違いだが……)。しかし、命で繋がる、あるいは命を預け合うという実感はなかなか得られない。
いやいや、結婚なんて単なる法律上の縛りに過ぎないから、そこに大差はないさ、と男女関係の大家は指摘するのだろう。だが、少なくとも私は妻を亡くしたとき、まさに命で繋がっていた関係がプツリと切れたように思えたのである。
こう考えてくると、離婚という行為は預け合っていた命を、共に生きた時間に相当する利子も付けて相手に返す作業だと言えるのではないだろうか。ま、未経験者の勝手な想像である。