映画「DISTANCE」(監督 是枝裕和)

【こちら側の人間が狂信するとき】
カルト教団による無差別テロ事件に絡み、その後教団に殺害された実行犯の遺族数人と元信者の一人が、数年後に教団施設で一夜を過ごすという話である。当然、オウム真理教の地下鉄サリン事件を下敷きにしているのだろう。
オウム真理教がくだんの事件を起こしたのは1995年だから、今年で30年も経つことになる──。あの年はたしか1月にいきなり阪神淡路大震災があって、その喧噪も収まらない3月にかの大事件があったのだった。
あの事件の直後、たまたまと言うか、ノー天気にと言うべきか、富士山麓にドライブに行ったことがある。やけに警察の検問が多くて驚いたのを今でも憶えている。近くの上九一色村(当時)にあった教団施設に警視庁の強制捜査があったことは後から知った。
それまでも富士山麓にはたびたびドライブに行ったり、キャンプに行ったりしていたのだが、何年か前から道路沿いを歩いている白装束の若者たち──男女を問わず無表情だった──をクルマの窓を通してよく見かけるようになっていた。新興宗教の信者が修行の一環として歩かされているのだと聞かされた。行くたびに増え続ける彼らを見て、薄気味悪さを覚えずにはいられなかったが、まさか彼らがあんな大事件を起こすとは思ってもみなかった。
さて、この映画が興味深いのは、彼ら信者の側ではなく、信者の遺族にスポットを当てている点である。つまり、身内に信者になった人間がいたが、自分は信者にならなかった人間である。信仰を持たなかった側の人間──それはすなわち、あのとき白装束の彼らをクルマから見ていた私である。劇中で遺族の一人である勝が、もう一人の若者・敦に問う。
「神って信じる?」
「……神様は信じないな。自分の中に神って存在しない。もともと神って言葉自体、人間が作ったものだから」
「うん、俺もそう思う。じゃあ、皆が神って呼んでいる存在に代わるものが自分にある?」
「それは……ある」
「それはでも神だよね。俺も、まさに神に代わるものはあるんだよ、やっぱり。その時その時に自分が信じることっていうのが、神に値するって言うか……」
この勝の言葉を聞いたとき、私は何故か妙に腑に落ちてしまった。と言うか、少しドキリとした。普段、科学至上主義の私はそんなことは一切否定しているのに……。
自分の信じるものと共鳴する何かを見つけたとき、信仰など持たないはずの人間も狂信するのだろうか。
画像引用元 ナタリー